89年天安門事件における「虐殺」説の再検討
6)「民主化」要求運動の本質
胡耀邦の死をきっかけに始まった学生のいわゆる「民主化運動」には、それが発生すべき社会的、政治的、思想的根源があったし、それについては今後も研究課題とすべきであろう。ことに57年の「反右派闘争」の拡大化と、今回の事件関係者への対処の異同を比較することは興味深い問題である。少なくとも中共中央は過去の経験から教訓を汲んで、今回の事件を処理するにあたっては、人民内部の矛盾を拡大解釈して批判の対象を拡大化することを避けるよう慎重に対応しているように思われる。いずれ両者の比較をきちんと行ってみたいと考えている。
それは今後の課題として、今回の学生運動そのものについて言えば、いわゆる「対話」を要求してハンスト戦術を行った5月中旬ですでに方向性を見失っていた。この点については『天安門事件の真相』下巻で「一九八九年春の中国学生運動・対話要求顛末記」で明らかにしたつもりなので、本論では詳しく論じない。
拙論を発表した後、項小吉とともに「対話代表団」の主要メンバーであった沈彤の回想録『革命寸前 天安門事件・北京大生の手記』(草思社 92年)を読み、この運動を担った学生がどのような意識で運動に関わっていたのかを、かなり明確に知ることができた。沈彤のように、一方でアメリカへの出国のためのビザ取得申請をしつつ、もう一方で対話要求運動のリーダー役を務めるという二足の草鞋を穿くような運動では、本当の意味で中国の大地に根ざしてその民主化実現のために戦っている、という評価はできない。米国行きに有利な条件作りをするのためのパフォーマンスをしているという側面があると思わざるを得ない。
89年の中国の学生運動を一面的に美化することは問題である。そもそも自分たちの要求を実現させるために「ハンスト」という、生命を武器にして相手に譲歩を迫る方法は、とても民主的手続きを踏んだものではない。生命を武器に相手に自分たちの条件を飲ませる方法であって、一種の脅迫である。
例えば、私自身が体験した日本の1968年~69年の東京大学における全共闘運動において、学生側(当時は私もその一人であった)は七項目要求を掲げ大衆団交を求め、全学バリケードストライキを行ったが、当時、要求した大衆団交の実質は、対等・平等・民主的な交渉ではなく、一方的に学生側の要求を大学当局に承認させることであり、大学側に全面屈伏を要求することを意味していた。
今回の北京の学生たちがハンストという非常手段で対話を要求したのも、政府当局に自分たちの要求を全面的に認めさせようとするものであって、文革期にも行われた極左行動に他ならない。それを「平和的」「理性的」な行動であった、と持ち上げるのは、あまりに「お人好し」な評価といえる。
7)思い入れ先行の「研究」の危険性
確かに六・四はショッキングな出来事であった。とりわけテレビを通じて全世界に映像を含むさまざまな情報がほぼリアルタイムに流しこまれたので、旧来の中国像、人民解放軍や中国共産党にたいするイメージ・ダウンを誰もが感じた。映像情報というものは文字情報と異なって、一過性のものであり、印象として人々の脳裏に焼き付くと、その呪縛からなかなか抜け出せないものである。とりわけテレビ映像は一日に何回も同じ映像および音声情報を繰り返し放映するので、知らず知らずのうちに人々の脳裏に刷り込まれてしまい、安易にそれを信じ込んでしまう。映像情報はたいへん魅力あるものだが、もう一方では非常に危険なものとなりうることをよく知っておく必要がある。そのような性質を持った、しかもショッキングな情報が、突如として89年6月にわれわれの世界に飛び込んできたので、われわれの中国革命像や人民解放軍に持っていたイメージと、六・四の軍隊の行動を合理的に理解することができない事態が生じたのは当然のことと思われる。
しかし印象で事件を語ってはいけない。ましてや中国を研究対象とする人は、客観的・総合的に事態を分析する必要がある。「民主化」を要求した学生や知識人の主張に耳を傾ける必要もあるが、同時に、彼らの発言の背後にあるものをも読み取るしたたかさも必要であって、彼らが掲げ、主張するスローガンや発言の、表面的なものだけに依拠することはできない。
とりわけ今回の事件に関連して書かれた日本の中国研究者の各種書籍に見られる傾向は、当局側の言動や発表した資料(公開・未公開を問わず)を分析・検討する作業を怠り、意図的に無視し、デマ扱いする対応が見受けられることである。前述した鄧小平の戒厳部隊幹部と会見した際の講話のような、第一級の公開資料を分析することを放棄する、あるいは表面的な分析しかせず、安直な批判で片づける、という傾向は問題である。当局側の発言を何ら分析することなしに100%鵜呑みにすることが正しくないのと同様に、それに充分な分析も加えず無視するのは研究者として失格である。
裏付けも定かでない伝聞情報を恰も真実であるかのごとく扱うことは、マスコミがよく犯す過ちであるが、同様なことを研究者が行って、しかもその後、誤った判断をしたことが明白になっても、自説に固執し、改めようとしないことは、研究者として恥ずべきことであり、過去の過ちに固執せず、誤った判断をした原因を究明し、是正する姿勢がぜひとも要求される。
89年6月の事件を契機に社会主義中国の崩壊を予測した研究者は、その後の中国の経済発展を整合的に説明することができず、政治面での改革を棚上げしたまま、ただ経済面での改革・開放を推進している、と述べて現状分析をしているつもりでいるようだが、それでは本質的解明にはならない。もし本当に民心に反した血の弾圧が行われたのであれば、民衆の怨恨は長いこと深く残り、さまざまな形でのサボタージュが行われ、経済発展の足を引っ張ることは間違いない。
現実にはそのような事態は発生していない。93年12月に北京を訪れ、学生運動のリーダーであったウルケシの出身大学である北京師範大学の某先生(彼は別に共産党の代弁者ではない)と雑談した際に、話がウルケシのことにまで及んだが、その先生はもう彼(ウルケシ)は完全に過去の人物ですね、と平然と述べていた。北京には「六・四後遺症」のようなものは見当たらなかった。このような現実を踏まえ、89年の事件にたいする日本人の認識を再検討することがぜひとも必要である。
「89年天安門事件における『虐殺』説の再検討」(『東京大学教養学部外国語科紀要』第41巻第5号 1994年3月25日発行 所収)