毛沢東のダライラマ宛て書簡

西藏博物館で見つけた毛沢東のダライラマに宛てた書簡について

  村田忠禧

 2010年夏に日本華人教授会議のみなさんと一緒にチベットを訪問する機会に恵まれた。9月4日にラサにある西藏博物館で毛沢東が1954年4月10日にダライラマに宛てた書簡が展示してあるのを見つけ、とりあえず撮影しておいた。帰国後、その内容を点検してみたところ、これまで出版物としては未公開のものであることが判明した。しかも内容からして信憑性の高いものであることも分かった。以下にその紹介と背景説明を行う。

チベット関係の文献の公開状況

 まず筆者が掌握している範囲内という限定付きだが、中国共産党の1950年代のチベット政策、とりわけ毛沢東や周恩来の文献が掲載されている文献集を紹介する。
 一般的な文献集として『建国以来重要文献選編』(中央文献出版社)、『毛沢東文集』(人民出版社)、『建国以来毛沢東文稿』(中央文献出版社)、『毛沢東書信選集』(中央文献出版社)などがある。
 チベット関係の文献をまとめたものとしては次のようなものがある。
・『周恩来与西藏』(西藏自治区党史弁公室編、中国藏学出版社、1998年12月)
・『毛沢東西藏工作文選』(中共中央文献研究室 中共西藏自治区委員会 中国藏学研究中心編、2001年5月第一版、中央文献出版社 中国藏学出版社)。なお本書には第二版が2008年7月に出版され、新たに3編が追加されたが、追加されたものには今回紹介する書簡は含まれていない。
・『西藏工作文献選編(1949-2005年)』(中共中央文献研究室 中共西藏自治区委員会編、中央文献出版社、2005年9月)
・『西藏文史資料選編(Ⅰ~Ⅲ)』(西藏自治区政協文史資料編輯部編、2007年6月、民族出版社)
 文献集ではなく、大事記として
・『中共西藏党史大事記(1949-1994年)』(西藏自治区党史資料徴集委員会編、1995年7月、西藏人民出版社)
・『中国共産党西藏歴史大事記(1949-2004年)』(中共西藏自治区委員会党史研究室編、2005年8月 第一巻~第二巻)
がある。この大事記には断片的ではあるが未公開の貴重な文献が数多く紹介されている。

1954年4月10日の毛沢東のダライラマ宛て書簡について

 以上列挙した書籍には1954年4月10日に毛沢東がダライラマに宛てて出した書簡は見当たらない。しかし『毛沢東西藏工作文選』と『西藏工作文献選編(1949-2005年)』には1954年4月の「給班禅額爾徳尼的信」(パンチェンオルドニに宛てた書簡 本文では以下、パンチェンと略称する)が掲載されている(前者の第一版では106頁、第二版では107頁、後者では106頁)。
 それを訳してみると以下の通りとなる。

 パンチェンオルドニ 様
 あなたの1953年8月1日のお手紙と贈り物に感謝いたします。あなたが健康でしかもいつも団結のために努力しておられることを知り、嬉しく思います。
 チベットが毎年、いくらかの人を内地に参観させることはとてもよいことです。この他にも毎年、いくらかの青年を選んで内地に学習に来させるのもよく、長期の学習でも短期の学習でも構いません。こうすればチベット建設のための民族幹部をより多く育成することができるからです。
 手紙とともにミルク分離機一台、拡声器一台、両用[短波と中波の両用か]ラジオ受信機一台を送ります。ご健康をお祈りいたします。
毛沢東
1954年4月
中央档案館に保存されていたオリジナルより

 それにたいして西藏博物館に展示されていたダライラマに宛てた書簡を訳すと以下の通りとなる。

 ダライラマ 様
 あなたの去年8月1日のお手紙と贈り物に感謝いたします。解放後、みなさんはチベットにおいて国家とチベット民族にたいして有益なことを少なからず行いましたが、これはとてもよいことです。まさにあなたがお手紙で述べている通り、チベットの僧・俗人民に新しい祖国についてよりいっそう理解させ、漢民族とチベット民族との団結を日ごとに固め、強めるために、チベットが毎年、いくらかの人を内地に参観させることは確かによいことです。この他にも毎年、いくらかの青年を選んで内地に来させ、短期あるいは長期に学習させることによって、チベット建設のための民族幹部をより立派に育成することができます。
 手紙とともにミルク分離機二台、拡声器一台、両用ラジオ受信機一台を送ります。ご健康をお祈りいたします。
毛沢東
1954年4月10日


 この二編の手紙はいずれもチベットの指導者への友好と激励を表明した儀礼的な内容であり、いずれも1953年8月1日に発せられた書簡への返信という形をとっている。おそらく同年10月の国慶節祝賀活動に参加する人々を見送るに際し、張経武(当時、中央政府チベット駐在代表、中共西藏工作委員会書記)に会見する機会があり、それぞれが張経武に手渡したものではなかろうか。1954年4月のパンチェンへの毛沢東の書簡はダライラマへの書簡と同じ4月10日に書かれたものと思って間違いなかろう。

 両者の内容で異なっている部分はパンチェンにたいしては団結(これは基本的にはダライラマとの関係を指すのであろう)のために努力していることを讃え、ダライラマにたいしてはチベット地方政府の国家とチベット民族のための貢献を讃えている。
 実は毛沢東は1953年3月10日にもダライラマ、パンチェンにそれぞれ書簡を出している。ダライラマについては1952年8月16日と9月3日の書簡、パンチェンのは同年8月3日の書簡への返信という形をとっており、ダライラマへの書簡では致敬団(表敬団)、参観団の派遣について言及している。交通ルートがまだ整備されていないことと厳しい気候との関係で、8月にチベットを出発し、内地を参観し、春を迎えた3月に北京からチベットに戻る、という参観活動のサイクルがあったのではなかろうか。1952年から1954年までの間に表敬団(致敬団)、国慶節参列団(国慶観礼団)、参観団、青年参観団、仏教代表団などの形式で1,000名近くの人々が内地を見学したという(『当代中国的西藏』上、当代中国出版社、1991年、209頁)。

 1954年4月の書簡でのもう一つのささやかな違いとして、贈り物のミルク分離機をパンチェンには1台、ダライラマには2台と差をつけていることが挙げられる。1953年3月10日においても、毛沢東は手紙と共に拡声器などの贈り物を送っているが、ダライラマには黄緞を四匹(匹は織物の長さの単位)、パンチェンには三匹とわずかだが差をつけている。チベットの指導者としての地位はダライラマが最高であることを意識しての措置である。
 両者の手紙で共通している点はダライラマ、パンチェンいずれもチベット側が内地へ参観団派遣の有意義なことを指摘している点がまず挙げられる。
 それにたいして毛沢東は参観団の派遣だけでなく、青年たちを短期あるいは長期にわたって学習のため内地に派遣することで、チベットの将来を担う民族幹部を育成することの意義を指摘している。

 今日の立場からみると、なんでもない、当たり前のことのように思われる指摘だが、当時の具体的状況を踏まえて考えると、必ずしもそうとは言えない。
 1951年5月23日の「中央人民政府和西藏地方政府関於和平解放西藏弁法的協議」(いわゆる17条協議)の9条には、「チベットの実際の状況に基づいて、チベット民族の言語、文字、学校教育を次第に発展させる」とある。同時に11条では「チベットに関わる各種の改革について、中央が強制させることはしない。チベット地方政府が自ら進んで改革を行うべきであり、人民が改革の要求を提起した時には、チベットの指導者たちと協議する方法を取ることで解決していくべきである」(『西藏工作文献選編』44頁)。

 チベットは解放前、95%が文盲という状態で、1952年初めに中共西藏工作委員会はチベット地方政府と協議してラサに小学校を開設することにした。同年8月15日にラサ小学は正式に成立するが、それに先立つ同年4月8日付けの「中共中央関於西藏的重要問題均集中由中央解決的指示」では「最近、ラサに小学校を創設するとの件について、報告と指示を仰ぐこともなかったが、これは正しくない」(『西藏工作文献選編』72頁)と現地の対応を批判をしている。なおこのラサ小学校設立の経緯については宋月紅編『中央駐藏代表 張経武与西藏』(人民出版社、2007年12月)208~209頁に詳しい紹介がある。

 チベット族幹部の育成について中共西藏工作委員会は1952年10月31日に藏族幹部育成5カ年計画を中共中央に報告する。それにたいし中共中央は同年12月16日に「中共中央対西藏工委培養民族幹部五年計画的指示」を出す(『西藏工作文献選編』92頁)。そこではチベット地区には目下のさまざまな不利な状況があるため、5カ年計画ではなく、まずは1953年の計画を立てるべきことを提起し、育成の対象としても一般の少数民族地域においては大衆のなかの積極分子をも育成の対象にするが、チベットの現状からして、僧・俗の愛国的知識分子と人々に影響力のある中・上層の人物を計画的に育成していくべきことを指摘している。しかも計画を実施するにあたっては事前にダライラマ、パンチェンあるいはその代表と協議し、その社会的、宗教的風俗習慣に十分注意を払うことを求め、きわめて慎重な態度で対処すべきことを指示している。
 1954年4月にいたっても毛沢東はダライラマ、パンチェンというチベットの指導者に民族幹部の育成の重要さを納得させる対応を示しているのである。

書簡はいつダライラマのもとに届いたのか

 張経武は当時、チベットにおける中共および中央政府の責任者である。宋月紅編『中央駐藏代表 張経武与西藏』は張経武のチベットでの活動を知る上で大変貴重な研究書と言える。張経武についてはこの他に主に写真を集めた中共西藏自治区委員会党史研究室編の『張経武与西藏解放事業』(中共党史出版社、2006年9月)がある。
 宋月紅は「1954年5月13日、張経武は毛主席のダライへの返信を自ら手渡した」(240頁)とし、それは1953年3月10日の書簡であると考証している。たしかに1954年4月10日の書簡の存在を知らなければそのような結論にならざるを得ないだろう。すでにわれわれはダライラマとパンチェンにたいして毛沢東が1954年4月10日に書簡を出していることを知っているので、5月13日に手渡した書簡というのは4月10日のものであると判断できよう。

 毛沢東の書簡では触れていないが、この年に開催される全国人民代表大会へのダライラマの出席を促すことが張経武の重要な任務であった。毛沢東は6月3日に劉少奇、鄧小平、李維漢に「ダライ、パンチェン等チベット族の代表はできる限り早く出発させ、9月5日前(一番よいのは9月1日前)には北京に到着するよう、ただちに手配するよう」指示している(『毛沢東西藏工作文選』第二版108頁)。
 7月15日、張経武に率いられダライラマ一行はラサを出発し、パンチェンは7月17日にラサを出発し、両者は9月1日に西安で合流し、9月4日に北京に到着、翌日には中南海紫光閣で朱徳主催の歓迎宴が開かれた。ここには毛沢東も出席している。9月15日に第一期全国人民代表大会第一回会議が開幕し、9月16日午後にダライラマは発言し、憲法草案への支持を表明する。中華人民共和国憲法は9月20日に採択され、ダライラマは全国人民代表大会常務委員会副委員長に当選し、パンチェンは常務委員に当選する。

 ダライラマはそのあと、東北地方を見学し、1955年3月8日に毛沢東に会見し、西北地域を経由してラサに戻っていく。毛沢東との談話記録は『毛沢東西藏工作文選』第二版117~120頁に掲載されている。
 ダライラマにとって19歳の内地訪問の体験はよほど印象深かったのであろう。2008年3月28日の全世界の中国人への呼びかけにおいても、「1954年から55年、全国人民代表大会に参加した時に、毛主席をはじめとする多くの中央の指導者にお目にかかり、友人にもなりました。とりわけいろいろな問題において毛主席から多くの教えを受け、またチベットの未来について多くの承諾をいただきました。これらの承諾と激励を受けたことと、それに加えて多くの中国革命の指導者たちの決意と情熱の影響を受け、私は希望と信念に胸をふくらませてチベットに戻りました。一部のチベット族の共産党指導者も同様な希望を抱いておりました」と懐かしんでいる。これは彼の真情の吐露と見るべきと私は思う。(http://xizang-zhiye.org/b5/hhdl/huyu.html)
 しかしその後の歴史は必ずしも毛沢東、ダライラマいずれにとっても予想外の展開となってしまった。

往復書簡集の出版を

 西藏博物館に展示されてあった毛沢東のダライラマ宛て書簡の写真を中央文献研究室の陳晋副主任に送り、その後北京を訪れる機会があったので、彼に会って真贋結果を問うたところ、本物であることを認め、いま編集中の毛沢東年譜(建国後の部分)に追加することにした、と伝えてくれた。私も少しは貢献できたことになるが、『毛沢東西藏工作文選』が第二版を出す際に、なぜ西藏博物館に展示してあるものを取りこぼすような初歩的ミスを犯すのか、いささか割り切れない気持ちを抱いた。
 同時に、毛沢東や周恩来からのダライラマやパンチェンに宛てた書簡は公開するが、ダライラマ、パンチェンが毛沢東、周恩来に宛てた書簡をも併せて公開しようとしない姿勢にも疑問を抱かざるを得ない。

 毛沢東、周恩来とダライラマ、パンチェンの往復書簡集を出すべきであり、しかも漢語だけでなく、チベット語はもとより、英語、日本語などにも訳して出版すればいいのではないか、と中国の研究者に提案すると、みな賛成してくれる。しかし一向にそのような動きは見受けられない。
 チベット問題の解決には双方が信頼感を回復することから始まる。その意味でも1950年代前半のチベットをお互いがもう一度真剣に振り返ることは有意義と思われる。まさに歴史を鏡とすべきではなかろうか。

        2011年8月18日
 日本華人教授会議・NPO中日学術交流センター『東アジア論壇』第7号 2011年12月発行

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