日本軍国主義の中国での犯罪行為

日本軍国主義の中国での犯罪行為について
     
1997年8月12日
       村田忠禧

1)中国分割への参入から全面支配へ

 一九世紀半ばから東アジアは欧米資本主義列強の争奪の的となった。中国は1840年~42年のイギリスとのアヘン戦争を契機に、次々と列強との間で不平等条約の締結を強いられ、領土を切り取られて、半植民地状態に落ちていった。
 日本は明治維新により新たな中央集権国家を誕生させ、「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」の政策を採り、さらには欧米列強の隊伍に加わることを目指す「脱亜入欧」の道を追求し、中国から台湾を奪い、朝鮮を併呑し、後発の帝国主義国として東アジアで勢力を拡張してゆく。
 中国の腐敗した清朝政府は1911年の辛亥革命で打倒され、中華民国政府が樹立されるが、国土が広大で、統一市場が形成されていず、ブルジョア階級が軟弱であったため、強固な中央政府は樹立されず、帝国主義列強との関わりの強い軍閥割拠の時代を迎える。
 一方、1917年にロシアではレーニンの率いるボリシェビキの革命が成功し、帝国主義国から社会主義国に生まれ変わり、世界の民族解放運動への連帯を表明したため、中国の広範な人々から熱烈に歓迎された。ロシア革命の影響の下、中国では1919年の五・四運動を経て21年には中国共産党が成立し、24年には広東に国共合作による広東国民政府が誕生し、26年から列強の駆逐、軍閥の打倒を目標とする北伐戦争が開始された。

 日本はこのブルジョア革命的性格をもった中国統一化運動を自己の既得権益を犯すものと見なし、27年~28年の山東出兵、張作霖謀殺などを通じて、敵対する姿勢を明確化してゆく。1931年9月18日には柳条湖事件をでっち上げ、翌年には「満州国」なる傀儡国家を樹立し、中国の東北部を日本の支配下に置き、以後の対ソ、対中侵略の拠点としてゆく。
 日本軍国主義は国内でのファッショ支配を強化するとともに、中国の華北を分離し、第二の満州国化を狙う。当時の蒋介石政権は、中国共産党の撲滅を第一の課題に掲げ、日本の侵略への積極的抵抗を組織しないどころか、そのような動きを弾圧していた。
 しかし日本軍国主義の露骨な華北分離工作は蒋介石の支配基盤をも脅かし、また36年12月に発生した「西安事変」の平和解決により中国共産党の統一戦線工作が実を結び、第二次国共合作が実現し、37年7月7日の蘆溝橋での砲声は中国の全面的抗日戦争の幕開けとなった。

 日本は中国の抗戦力を過小評価し、「初動一撃の衝力」で蒋介石政権を屈伏させることが可能と判断していたが、国民政府は南京から武漢、さらには重慶へと移って投降を拒否する。戦争は毛沢東が予言した通り、持久戦となり、中国の抵抗は止むことなく、装備において圧倒的に優位に立つ日本軍にたいし、中国共産党に指導され、人民大衆に支えられた八路軍、新四軍が勇猛果敢に遊撃戦を展開し、国民党の正規軍も果敢に抗戦した。日本軍は無原則に戦線拡大を続け、中国戦場という泥沼にはまり、広大な地域の点と線を確保するのみであった。

 日本は軍事だけでは目的を達成できないため、謀略をも併用して、反共と抗日との間で動揺する蒋介石政権の屈伏ないしは崩壊を狙った。40年3月には南京に汪精衛(汪兆銘)の「中華民国」傀儡政権を樹立させ、重慶の蒋介石政権の崩壊を企てるが、汪精衛に呼応する動きはなく、日本軍の目論見は失敗する。

2)アジア・太平洋戦争へと拡大

 ヨーロッパではドイツが39年9月にポーランド進撃を開始し、第二次世界大戦が開始される。40年6月にはドイツ軍はパリに進駐する。ヨーロッパ戦線でのドイツ軍の進撃に乗じて、日本軍は南進によって局面打開を謀ろうとし、40年9月に北部仏印(仏領インドシナ)に進駐する。同時に日独仏三国同盟に調印し、国内的にはファッショ的な総動員体制を構築する。アメリカは次第に中立政策から反ファッショ連合へと姿勢を明確化してゆく。41年4月に日本はソ連との間で中立条約を締結し、南進政策を有利に進めようとする。6月、ドイツ軍がソ連に突如進軍して独ソ戦が開始され、英、米、ソが共同してドイツに対処する局面がようやく生まれる。
 41年12月8日、日本はイギリス、アメリカに宣戦布告し、奇襲作戦を展開する。それまでアメリカ、イギリスの租界としてかろうじて日本の支配から逃れていた上海や、イギリスの植民地香港にも日本軍の魔の手が伸びた。

 しかし日本軍の破竹の進撃は半年ほどで終わり、42年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫し、以後主導権をアメリカに奪われる。同年冬季にはスターリングラードでのソ連軍のドイツ軍にたいする反撃が開始される。43年9月にはイタリアが連合国にたいして無条件降伏する。戦局は明らかに日本、ドイツに不利な方向に進みつつあったが、戦争がもたらす苦難はいっそう厳しく人々にのしかかっていった。

 蒋介石政権は日本が英、米と戦争を開始した翌日、対日、独、伊に宣戦を布告して連合国側に立つことを明確にした。アメリカ、イギリスはドイツとの戦いに勝利することを優先させるため、アジアの戦場での抗日勢力としての蒋介石政権への支援を強化する。しかし蒋介石はもっぱら自己の勢力温存を企て、日本軍と中国共産党の指導する八路軍、新四軍が共倒れすることを願っていた。

 アメリカはドイツとの戦いに勝利した後、当初は中国大陸に上陸して日本軍を叩く戦略を構想し、自己の犠牲を少なくするため、中国共産党の抗日勢力をも利用することを考えていたが、その後、太平洋の島々を飛び石的に北上して日本に直接進軍する戦略に転換する。また満州の関東軍を粉砕する目的でソ連の早期参戦を求めた。スターリンは参戦の見返りにツアーロシア時代の権益の回復を求め、英、米、ソの三国は45年2月、中国の主権を犠牲にしたヤルタ密約を結んだ。戦後世界の勢力争いはすでにこの時期から始まっていたのである。

 日本はドイツの敗北後、41年4月に締結された「日ソ中立条約」がソ連によって破棄されることを覚悟し、ソ連の進軍に備えて満州に大量の化学兵器を集中させた。ソ連はアメリカの原爆実験成功の情報を得て、対日参戦の日程を8月9日に繰り上げた。これは日本側の予測を上回る早さで、関東軍はあわてて化学兵器を地中に埋めたり川に捨て、平房の七三一部隊の施設を破壊し「丸太」と称していた捕虜、囚人たちを殺害して証拠隠滅に努めた。もし日本の降伏が一年遅れていたら、どのような災難が発生していたであろうか。

3)宣戦布告なき侵略戦争

 日本は1931年9月18日に始まる東北地方への侵略戦争を「満州事変」と呼んでいる。37年7月7日の蘆溝橋で始まった戦争も「北支事変」と称し、さらには「支那事変」へと呼び方を改めている。いずれも宣戦布告なき戦争である。
 日本軍は戦争で一定の地域を確保すると決まって傀儡政権を樹立していった。関東軍が作り上げた「満州国」しかり。37年12月の南京攻略とともに北平(現在の北京)に北支那方面軍が樹立させた「中華民国臨時政府」しかり。翌年3月に南京に中支那派遣軍が樹立させた「中華民国維新政府」しかり。それらでは効果がないため、国民党の大物とされた汪精衛を担ぎ出して40年3月に南京に樹立した「中華民国政府」しかりである。
 このような国家主権を無視した傀儡政権樹立策動は、実際には戦争終結への道を遠のかせるのみであった。ただ日本軍は中国人の傀儡を使って統治するというやり方を通じて、直接自分自身ではやれないさまざまな「うま味」を味わうことができた。

 戦争においても約束ごとはあるのであって、武器を放棄し、抵抗する意志のないことを表明した戦闘員を虐待し、殺害してはならない。非戦闘員である一般市民に被害を与えてはならない。ましてや無差別大量殺戮兵器を用いてはならず、とりわけ第一次大戦でヨーロッパで大きな被害をもたらした化学兵器や細菌兵器の使用は当時すでに禁じられている。

 日本は中国にたいし、宣戦布告もせず14年間もの長期間、戦争をし続けたが、「事変」と称することで守るべき国際法規を無視した犯罪行為を繰り返した。当時の日本の支配者が無知であったためではない。中国を対等の国家として認めず、見くびっていたためである。以下に示す1939年5月13日、参謀総長閑院宮載仁〔かんいんのみやことひと〕親王が北支那方面軍司令官杉山元に発した「大陸指第四五二号」という指示がそれを証明している。

 「大陸命第二四一号〔「大本営の企図は占拠地域を確保し其安定を促進し、健実なる長期攻囲の態勢を以て残存抗日勢力を制圧衰亡に勉むるに在り」(1938年12月2日)〕に基き左の如く指示す。
 一 北支那方面軍司令官は現占拠地域内の作戦に方〔あた〕り黄剤等の特種資材を使用し其作戦上の価値を研究すべし。
 二 右研究は左の範囲に於て実施するものとす。
 イ、事実の秘匿に関しては万般の処置を講ず。特に第三国人に対する被害を絶無ならしむると共に秘匿することに関し遺憾なからしむ。
 ロ、支那軍隊以外の一般支那人に対する被害は極力少なからしむ。
 ハ、実施は山西省内の僻地に於て秘匿の為に便利なる局地に限定し、試験研究の目的を達する最小限とす。
 ニ、雨下は之を行わず
   (大本営陸軍部『大陸命・大陸指総集成(四)』エムテイ出版)

 第三国人への被害は絶無ならしむ、とは使用が禁じられていたびらん性毒ガス兵器であるきい剤(イペリット)の使用事実を秘匿するためであった。一般人にたいしての配慮も同様である。
 第二次世界大戦において、ドイツ軍はヨーロッパ戦場において同類の兵器による報復を恐れて、化学兵器を使用しなかった。それに比して日本軍は大規模かつ長期にわたって中国戦場で化学兵器を使用してきた。その理由は次の文書が明らかにしている。

 「防護装備竝に防護教育劣等なる支那軍に対しては特種煙は極めて有効にして其少量を使用するも敵を戦闘不能ならしめ、其の射撃を封じ予期以上の効果を収めたること尠からず。」(中支那派遣軍司令部の極秘文書「武漢攻略戦間に於ける化学戦実施報告」(1938年11月30日) 不二出版『毒ガス戦関係資料』所収)

 宣戦布告なき戦いであるため、捕虜としての本来の処遇をせず、ただちに殺害するか、連行して危険な作業に強制労働させるか、生体実験の材料として使った。いずれにせよ日本軍に囚われた者には、魂を売り渡して日本の手先になる以外には死への道しか残されていなかった。
 日本軍の蛮行は広範な中国人の反感を呼び起こし、抗日勢力は大海のなかを泳ぐ魚のように、人民に支えられて戦うことができた。日本軍からすれば、手先にならない中国人はみな敵に通じているものに見え、そのために多くの一般人が虐殺された。

4)二一世紀に向けた日中友好関係

 1945年9月2日に日本は戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印し、これで日本が1931年より続けてきた侵略戦争は終わりを告げた。しかしすでに水面下では戦後の世界支配をめぐってアメリカとソ連の勢力争いが始まっており、中国においても抗日戦争を通じて勢力を拡大した共産党と、成果を横取りしようとする国民党の争いも始まっていた。
 蒋介石は日本軍にたいして共産党の軍隊には投降しないよう命じた。アメリカは国民党政権をてこ入れしており、ソ連も中国共産党の力量を信じていなかった。中国共産党は独力で戦わなければならなかったが、抗日戦争を真に戦った勢力であったことと、土地革命で農民の支持をかち取ったため、人民解放軍は破竹の勢いで進軍し、49年4月には南京を攻め落とし、同年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。蒋介石は台湾に逃げ延び、アメリカも蒋介石政権を見放すかに見えた。

 しかし50年6月に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカは国連軍の名のもとに朝鮮に軍隊を投入すると共に、台湾海峡に第七艦隊を派遣し、再び中国問題に介入することとなった。アメリカの世界戦略における日本の役割は強化され、52年には日米安保条約が発効し、蒋介石政権との間で日華平和条約が締結された。日本はアメリカに追随して再び中国への干渉を始めたのである。

 しかし時代は変わった。日本国内にはかつての侵略戦争による災禍を反省し、軍国主義復活に反対する人々が大勢いる。中華人民共和国との国交樹立を要求する運動が力強く、幅広くまきおこった。アメリカに追随し、中華人民共和国を敵視すべきか、それともそれとの国交を樹立すべきか、中国問題が日本国内を二分する大きな争点となった。

 アメリカの中国封じ込め政策は破綻し、キッシンジャーによる秘密外交の展開は、皮肉なことに国連代表権問題での中華人民共和国政府支持勢力の勝利を招いた。1971年9月のことである。翌年2月、アメリカのニクソン大統領は北京を訪れ、中国との関係改善を約束する共同コミュニケを発表する。日本の田中角栄首相はこの歴史の新しい潮流に対応すべく、72年9月に北京を訪れ、中華人民共和国との国交樹立を宣言する。新中国成立からおよそ四分の一世紀、23年後のことである。

 国交樹立の際に発表された両国の共同声明のなかで、日本側は「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」との態度を表明し、中国側は「中日両国国民の友好のため、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と表明した。

 日中新時代の開幕か、と期待されたが、その後四半世紀以上たった今日の日中関係は必ずしも楽観できない。中国の改革・開放政策の成功で日本企業もバスに乗り遅れまいと中国市場を目指して進出しているが、相互信頼にもとづく共存共栄の関係は樹立されていない。
 むしろ相互不信は根強く、日中国交回復当時よりもある面では悪化している。中国では日本の一部勢力がかつての侵略戦争を美化・肯定する動きを見て「日本警戒論」がマスコミを賑わしているし、日本では中国が歴史問題をたびたび提起することにたいして嫌悪感を示す「嫌中感」なるものが広まっている、とマスコミは報道する。

 これまでの経緯を振り返ると、大筋において中国側は日中の友好関係の発展を希望しており、問題の大半は日本側の挑発によって引き起こされていることが分かる。

 台湾問題は中国人の内部問題であり、日本は日中共同声明を遵守し、余計な介入をすべきではない。いわゆる「尖閣列島」の領有権問題も歴史を客観的に解明すれば答えは自ずと出てくる。われわれは過去の教訓を汲み、あらゆる紛争を平和的、理性的、友好的に解決する知恵と能力を身につけるべきである。
 戦争責任をめぐる政治家の食言問題は、彼らの思考様式が軍国主義時代のものと変わっていないことを示している。しかしそのような行動は中国のみならず世界中から嘲笑の目で見られていることを知るべきである。かつて侵略戦争でアジアの国々に多大な被害を与え、日本自らをも破滅に追いやった事実を明確に認識することは、むしろ日本は今後そのような道を歩むものではない、という意思表示になり、日本自身の利益になるはずである。

 真実を隠蔽し狭隘な「民族主義」を煽り立てることはむしろ国の進路を危うくするものであり、真に国を愛することではない。本当に心から信頼しあえる関係を人と人、国と国との間で培ってゆくことが、二一世紀に生きるわれわれの課題だと思う。

  1997年8月12日に川崎市で開かれた中国の細菌戦被害者証言集会で発表