漢点字と中国語

漢点字と中国語
――川上泰一先生逝去10周年を記念して――
村田 忠禧

 漢点字との出会い

 私が漢点字の存在を知ることになったのは1991年4月に横浜国立大学教育学部に是沢富夫さんが入学したためである。是沢さんは漢点字使用者で、第二外国語として中国語を選択した。私は彼が所属する日本アジア文化コースの教員であり、中国語をも教えていたので、必然的に彼の勉学のための体制作りに関わることとなった。
 当時、すでにパソコンで使える音声読み上げソフトは登場していたし、点訳ソフトもそれなりに揃っていたので、それらを活用すれば問題は解決するだろう、と私は思っていた。ところが是沢さんからは漢点字を使用できる環境が必要であるといわれ、そこで初めて漢点字とは何か、それを扱える環境を整えるには何が必要か、またそれを使ってどのような教材類を提供すればよいのか、といった問題に直面することとなった。
 それまで私は視覚障害者を対象とした教育に関わったことがなかったし、ワープロの世界にどっぷりと使っていた私にとって、パソコンの世界はほとんど初体験の連続であった。鳴門教育大学の末田統先生、県立平塚盲学校の船越正夫先生、横浜漢点字羽化の会の岡田健嗣さん、墨田区立緑図書館の点訳ボランティアグループのみなさんなど多くの方々のご指導、ご協力をいただいた。是沢さん自身から学ぶことも多々あった。そして何よりも漢点字の生みの親である川上泰一先生から、漢点字についての説明や誕生にいたるまでのさまざまなご苦労話を直接うかがい、啓発されることがいろいろあった。みなさんのご支援をいただき、また文部省からの予算の配慮があったおかげで、学習研究社の漢和辞典『漢字源』の漢点字版を編集・作成することができた。しかしこれを完成させるのに4年の歳月がかかってしまい、川上泰一先生にその完成を報告することができなかったことは残念である。

中国語の点字事情

 もう一つ解決すべき問題として中国語の教育があった。視覚障害者にたいする中国語教育というのはまったく予期していなかった問題であり、そもそも中国語の点字に関する情報は皆無といってよい状態であった。
 幸いなことに是沢さんが入学した年の5月に台湾大学日本綜合研究センター設立準備会が主催するシンポジウムが台北で開かれ、私はそこに招かれた。その機会に台湾の点字がどういうものを尋ねたところ、『国語点字』という中国語の点字を紹介した小冊子を入手できた。
 ついで同じ年の10月に北京を訪れた折に、中国大陸における点字がどうなっているのかを調べるため、北京盲人学校を訪れた。北京を訪れる前に、漢点字を扱うパソコンのシステムの実際を知る目的で神奈川県立平塚盲学校を訪問していたので、それなりに日本の盲学校の実情を垣間見ていた。文革期のことになるが1971年12月に初めて中国を訪問した時に広東省広州市の聾唖学校を参観したことがあり、ハリ治療を受けて聴力を回復し、話せるようになった喜びを歌と踊りで表現する聾唖学校の生徒たちの姿を目にしてとても感動した。それは毛沢東思想の宣伝という目的を持ったものであったが、ともかく私の脳裏に強烈な印象として残っていた。しかし20年後に訪れた北京盲人学校は、施設の面で日本の盲学校よりはるかに立ち遅れているだけでなく、精神面でも意気消沈した様子で、かつて広州の聾唖学校での体験との落差はあまりに大きかった。校長先生は申し訳なさそうな顔つきで、見学料を払っていただけないか、と私に申し出るのであった。当時の中国は1989年の天安門事件(中国では「六・四動乱」と呼ぶ)の影響から抜けきれていず、西側先進諸国からの経済制裁の圧力を受けており、情況は大変厳しかったのだろう。しかしそれにしてもこれはあまりにひどい、と思わざるを得なかった。
 この盲人学校で中国の点字を示す資料をいただいた。それは点字紹介のパンフレットではなく、彼らが日常使っている点字教材資料で、正直なところ、台北で入手したものに比べて見劣りするものであった。しかしともかくこれで台湾と大陸における中国語の点字の概要がわかるようになった。
 台湾にしろ、大陸にしろ、中国語の点字は日本のかな点字と同様、発音しか表現しないものであり、漢字を表現する点字ではなかった。また台湾と大陸とでは同じ中国語の点字でありながら、点字体系が異なっていた。つまり台湾と大陸の盲人が口頭で交流することは可能であるが、点字で文通したのでは通じないのである。台湾にも大陸にも点字による教材はあったが、漢字を表現できないのでは積極的な意味を見出せないと判断し、当初は念頭にあった教材の購入を放棄してしまった。今から考えると、この判断は正しくなかったのかも知れない。少なくとも初期の発音習得段階で中国語点字をきちんと教育し、その後に漢点字と中国語点字とを併用した教育を行っていたならば、もっと発展の余地はあっただろう。ただそれを教えることになるわれわれ自身が、中国語の点字はもとより、点字そのものの知識を持ち合わせていなかったので、そこまで踏み込んだ対応ができなかった。当時の判断が適切であったかどうかは別にして、今後の教訓とすべきと思っている。
 1993年12月に再び北京盲人学校を訪れたが、学校の雰囲気はかなり変わっていた。91年に行った時にはマッキントッシュのパソコンが何台かあったが、白い布に覆われており、使われている気配は見られなかった。しかし今回は清華大学の茅于杭教授が盲人用に開発したソフトがあり、それを使って全盲の学生が中国語の文章を入力する場面を実演してくれた。文字の自動的な読み上げで確認しながら入力するもので、かなりの速度で中国語の文章が入力されていった。末田先生が開発した日本語漢点字ワープロソフトと同様なことが可能になっていたのである。清華大学にも行き、このソフトを開発された茅教授にもお目にかかり、そのソフトウエアのコピーをいただいた。残念ながら当時の日本で一般的であったNECのPC9801シリーズでは読めない1.4メガバイトのフロッピーであったし、OSそのものが中国語でないと使えないため、せっかくいただいたソフトウエアも役に立たなかった。ともかく中国が落ち着きと自信を取り戻し、ゆっくりした足どりではあるが大きく変わりつつある、ということをこの時は実感できた。
 1998年9月には北京の盧溝橋にある中国盲文書社(現在は中国盲文出版社と名称変更)を訪問した。ここは中国唯一の点字図書出版社で、かなりきちんとした点字図書の印刷設備があり、出版している図書の点数も非常に多いことに驚いた。政府がこの方面に力を入れるようになったのだ、と応対してくれた女性は私に誇らしげに紹介した。同時に、中国の点字が大きく変わりつつあることを知った。中国大陸で使用されてきた点字は1953年に教育部に批准され、広く使われてきた「現行盲文方案」というものである。これは可能な限り字母の表示を国際共通化するという観点から点字が決められており、注音字母という中国語独自の発音体系から出発した台湾の「国語点字」と異なっていた。「現行盲文」は単語単位での分かち書きをするので声調は省略してかまわない、という方針であった。しかし中国語の音節は1300にも満たない。そのためたとえばtongzhiという二音節を声調なしの無色の音節として表現した場合、「同志」「統治」「通知」のいずれなのかは前後関係から判断するしかない。このため古文や学術文献を読む場合にはとりわけ不便が発生する。この不便を解決するために声調をも表現できる点字として「漢語双ピン〔手偏の并〕盲文方案」(略称「双ピン盲文」)が考案され、20年以上におよぶ試行期間をへて、1996年から正式に実施されることとなった。実施計画によると公開発行される盲文出版物は1998年よりすべて「双ピン盲文」に切り替わり、2000年からは盲学校の教材も基本的に「双ピン盲文」を使用したものになるとのこと。ただし中国盲文出版社のホームページで発売されている教材の一覧を見た限りでは、まだ「現行盲文方案」のタイトル数がまだ多い。新しい点字体系に移行するのはそう簡単なことではないのが実情のようだ。
 この新しい「双ピン盲文」の特徴を大まかに紹介すれば、①字母の国際共通化という方針を放棄し、中国語自身の特徴に着目していること、②声母と介音を第一マスに、韻母と声調を第二マスに組み込み、すべての字の音節を声調も含めて二マスで表現できるようにしたことにある。このため中国語の発音を正確に表現することが可能となり、前述の「同志」「統治」「通知」は明確に区別できる。この他にも的、是、有、在、了といった特殊な常用語は一マスで表現できるなど、きわめて合理的なものである。音節表記における曖昧さが減るため、漢字(墨字)との情報交換が便利になるであろう。漢点字を習得した人が中国語を学ぼうとする場合、この新しい「双ピン盲文」は積極的に習得する価値のある点字体系だと言えよう。

漢字を表現できる点字の必要性

 前述した通り、私が盲人学校や盲文書社を訪れたのは中国語の点字を知るためであったが、同時に日本語における漢点字の存在を知ったので、これをぜひ中国の人々にも紹介し、中国語にも取り入れることを勧めようと思ったからである。私は『中国語学』240号(1993年10月、日本中国語学会発行)に「点字による漢字表記の必要性と可能性――国際漢点字の創出にむけて――」と題する提言を発表し、漢点字を単に日本語の世界だけでなく、中国語圏全体に広めることを呼びかけていた。そして中国に行くたびに関係者にこの問題を提起した。しかし中国側はこの考えにほとんど反応を示してくれなかった。今にして思えば、前述した通り中国は「双ピン盲文」という新しい点字体系への移行という大きな転換点に立っていたのに、私はそのことの重大さに気づかず、ただ漢字を表現できる点字の必要性にのみ関心を示していたのだ。お互いに自分の関心事にしか頭が回らなかったため、議論がかみ合わなかったわけである。
 ただし漢字を表現できる点字という考え方に中国人が非常に興味を示してくれたこともあった。それは1998年5月に香港を訪問した時のこと。ご承知の通り、香港は1997年7月にイギリスの統治が幕を閉じ、中華人民共和国香港特別行政区になった。香港城市大学での円卓会議での報告を終えたあと、香港のある出版社の友人から中国復帰後の香港の情況をいろいろと聞いた。そもそも広東語圏である香港では北京語を学ぼうとする気風はあまりなく、大学で学ぶ言語で、英語に次いで多いのは日本語であった。しかし中国への復帰を契機に中国人意識が強まり、大陸からの旅行者の数が日本人よりも増えたこともあり、共通語である北京語学習熱が巻き起こった。これは書店に並べられた中国語学習図書の豊富なことからも確認できた。広東語を話す健常者が北京語を学ぶのはそれほど大変なことではない。両者の大きな違いは発音にあり、語法や語彙の違いは大した問題ではないし、簡体字も精神的な抵抗感がなくなれば容易に習得できる。しかし広東語の点字(粤語点字)を習得した人が新たに北京語の点字を学ぶことは、発音体系がまったく違う点字体系の習得にあたるため、まさに一からの出直しとなる。香港の盲人たちは、もし北京語が香港でも一般化することになると、自分たちは文盲に戻ってしまう、と心配しているとのこと。だから漢字を表現できる点字があるとすれば、それは大変素晴らしいことで、大歓迎されるに違いない、と友人は語ってくれた。
 実際には香港が中国に復帰してからも広東語は禁止されていないし、粤語点字は今日でも使われている。香港の盲人の心配する事態は発生していない。しかしもし漢字を表現できる中国語の点字体系があれば、香港でも、台北でも、上海でも、北京でも発音に関係なく十分に通じ合えるのだ。日本語の漢点字をそのまま持ち込むのは問題があるが、川上先生が漢点字を発明したその発想を正しく理解すれば、中国語の漢点字(仮にそれを漢字盲文と名付ける)を創出することは十分に可能である。しかも日本語において、かな点字と漢点字は対立するものではなく、いずれも日本語にとって必要な点字表記体系になっているのと同様に、双ピン盲文と漢字盲文とも対立し合うものではない。。
 中国においてまだ双ピン盲文が正式に誕生してから日は浅い。まずはそれを普及させることが当面の課題なのだろう。その普及を温かく見守りながら、同時に漢字を表現できる点字の可能性と必要性を訴えていくことが大切と思われる。もし漢点字を習得した人が中国語を学ぶようになれば、具体的には双ピン盲文を習得するようになれば、中国人の漢点字にたいする理解はもっと深まるだろうし、中国語においても漢字を表現できる点字体系を作る必要性があると実感するのではないか。
 かつて漢字は中国から日本に伝わり、日本に多大な恩恵をもたらした。もしかすると今度は漢点字がその恩返しをすることになるかも知れない。それが実現したら、天国にいる川上先生もさぞかし喜ばれることであろう。
日本漢点字協会『新星通信』第100号記念誌 2004年11月20日発行所収