計量分析の有効性について

人文・社会科学研究における漢字、語彙の計量分析の有効性について

 ここまで紹介してきたのは中共の党大会政治報告であり、これは前述した通り規範化された文献であり、比較分析をするのに適している。現実の言語生活ではそのような条件の整った文献はむしろ稀である。
 では他の一般的な文献類ではこのような分析は不可能なのだろうか。なにごとも比較分析をする場合には共通の土台が必要であり、大切なことはこの共通の土台を発見することである。
 『人民日報』社説をただ漫然と並べただけでは比較のしようがないし、分析者が立証しようとする目的に合った社説を任意に拾い上げて分析しただけでは主観性が強すぎ、牽強付会に陥りやすい。そこで元旦社説や国慶節社説のように毎年定期的に登場する社説に注目すれば、それらにおける語彙の変化から時代の変化を読み取ることは十分可能である。
 しかし実際の人間の行動を記した文献は必ずしも政治報告や社説のように類型化されたものではない。ではそのような類型化されていない文献の場合には、ここで紹介したような分析法は有効ではないのか。
 筆者は有効であると考える。ただし分析結果が有効であるためには、断片的な、分析者にとって都合のよさそうな情報だけを集めて分析するやり方では駄目であって、大量に、可能な限り十分な資料を集める努力をする必要がある。大量なデータからそれぞれの漢字や語彙の出現頻度の平均値を求め、それと分析しようとする対象の時期や文献の値とを比較すれば、十分に比較が可能である、と考える。
 この点で毛沢東の農村調査についての主張は大いに参考になる。
 毛沢東はかつて一九三〇年五月に「調査なくして発言権なし」(毛沢東「反対本本主義」、『毛沢東農村調査文集』一頁)という有名なスローガンを提起したが、翌年四月になると一つ重要な追加を行なった。「正確な調査をしないのも同様に発言権はない」(毛沢東「総政治部関於調査人口和土地状況的通知」、『毛沢東農村調査文集』十三頁)。
 私は正確な調査というよりは、全面的で客観的なというような表現を用いたほうがよいとは思うが、ともかく毛沢東が十一カ月の実践を通してこのような認識の変化に達したことは大変注目すべきことである。
 われわれの分析・研究が正しいか否かはあくまでもそれが客観的世界を正しく反映しているかどうかであって、客観的であるためには可能な限り先入観を排除しなければならない。
 しかし認識主体である人間は実は主観的な意図を持って分析するのだから、先入観を持つことは避けられないし、それ自体は否定すべきものでもない。
 それは客観世界を探求するうえで探照灯のような役割を果たす。大切なことは探照灯によって照らし出されて浮かび上がった客観世界の事実が、自分の予見していたものと異なっていた時に、自己の認識との違いを発生させている要因が何であるかを随時点検し、よりいっそう正確で深みのある認識に到達するよう常に「探照灯」の性能を向上させる努力をすることである。
 そのような努力を不断に続けていけば、科学的な認識は十分に可能となる。
 したがって、人間科学だから客観的真理などというものは存在せず、それは分析者の数だけ存在する、というような不可知論的思考は否定されるべきである。

  「人文・社会科学研究における漢字、語彙の計量分析の有効性について 中共党大会政治報告を素材にして」(中国社会文化学会『中国-社会と文化』第19号 2004年6月 所収)