高文謙著『周恩来秘録』について

四人組的色眼鏡で描いた毛沢東と周恩来
 高文謙著 上村幸治訳『周恩来秘録 党機密文書は語る』講談社2007年3月発行(上下冊)
   村田忠禧

 筆者(本文においては村田を指す。以下同様)は日本語訳が出る前に高文謙著『晩年周恩来』(明鏡出版社、二〇〇三年出版)を読んでいた。その時の印象として、中国共産党、周恩来、毛沢東についての筆者の持つ知識、見解とあまりに隔たるものがあり、到底信じられるものではない、との判断に達していた。
 今回、日本語版を読んでみて、あらためて自分の判断に間違いがないことを確信した。筆者はあまりに短絡的かつ独善的で予断と偏見に満ちた断定をしているのだろうか。
 筆者はかつて李志綏の『毛沢東私人医生回憶録』(日本語版は文藝春秋から『毛沢東の私生活』として出版された)を読み、そこで描かれている毛沢東像には事実に反することがかなりあることを見つけ、このようないかがわしい本が中国研究者をも含むかなり多くの日本人に毛沢東の真実を伝えたものであるかのように受け止められていることに不快感を抱いていた。
 李志綏の本を批判する林克・徐濤・呉旭君による『歴史的真実』という本が香港の利文出版社から発行されていることを知り、さっそく取り寄せて読んだところ、その内容はしっかりしており、翻訳して出す価値と必要があると判断し、蒼蒼社から『「毛沢東の私生活」の真相』と題して出版した。
 李志綏の本に比べるとその発行量は微々たるものにすぎなかったが、翻訳するなかで筆者が李の本を読んだ当初に抱いた判断が正しかったことをいっそう確認することができた。
 その成果を訳者解説として「わたしの蔵書からみた晩年の毛沢東」と題して同書の最後に載せておいた。残念ながらこれまでこの本と筆者が書いた解説はほとんど注目されていないが、高文謙の本を評価するうえでも参考になる貴重な情報が含まれているので、この機会にぜひ読んでいただきたいと思う。
 『歴史的真実』はそれぞれ毛沢東の秘書、保健医、看護士長を担当した林克、徐濤、呉旭君の執筆となっているが、香港で一九九五年に出版され、次いで台北、最後に一九九八年に中央文献出版社から簡体字版が出版されていることでも明らかなように、李志綏が垂れ流すデマを暴露するために中央文献研究室が積極的に関与して出版したものであった。
 李志綏が毛沢東の保健医であったという経歴を売り物にしたのと同様、高文謙も中央文献研究室の室務委員、周恩来生平研究小組組長であったことを売り物にしている。
 その彼が李志綏の本を積極的に論述の根拠として引用している。彼は『歴史的真実』の存在を知らないわけではなく、そこからも引用している。一体どのような神経の持ち主なのか。
 もちろん一般論としていえば真実を反映した貴重な証言と判定できるなら立場の違いを越えて尊重すべきである。李志綏の本だからとやみくもに葬り去ろうとする態度は正しくない。筆者が高文謙の対応に疑問を持つのがはたして偏見に満ちた反応かどうかは『「毛沢東の私生活」の真相』を読んだうえで判断していただきたい。

 では高文謙の本の具体的内容をいくつか事例を挙げて見てみよう。
 『周恩来秘録』下巻二三四頁(原本では五一六頁)に次のような記述がある。
 「一九七四年六月に、江青があちこちで『党内の大儒者』批判を繰り広げたとき、毛沢東は再び彼が延安で整風運動を行った期間に書いたあの九編の文章に手を入れ直し〔筆者注 典拠として『中共党史研究』龔育之らの文章、一九九四年第一期〕、周恩来批判の大型爆弾として使うための準備を始めた。前述した通り、この九編の文章は毛が当時延安で整風運動を行った期間に書いた九編の党内通信である。」「文中では党内の教条、経験両派を一手になぎ倒し、息の根を止めかねない厳しい批判と皮肉や当てこすりを駆使するテクニックで王明、博古らをぐうの音もでないほどさんざん罵った。そのうちの二編は経験主義を批判するもので、周恩来を名指しし、『経験宗派の代表』と呼んで教条宗派の『使い走りをしておもねる』『共犯者』だと指摘した。今回これを書き直すにあたって、毛は戦略的な配慮から、周の名前と劉少奇を褒め称える部分を削除したが、文章全体の矛先が誰に向けられたものかは一読して明らかであった。」
 周恩来批判の大型爆弾として使うために「九編の文章」に手を入れたという根拠の出典とされている『中共党史研究』一九九四年第一期に当たってみるとそれは『胡喬木回憶毛沢東』編写組の名義で出したもので、表題は「駁第三次『左』傾路線的九編文章与『歴史草案』」である。胡喬木へのインタビューを基にして(胡喬木は一九九二年九月に死去)関係者がまとめ、人民出版社から九四年九月に出版、その直前に『中共党史研究』にその「さわり」ともいえる重要部分を掲載したものである。

 そもそも「九編の文章」とは何を指すのか。王明らの第三次極左路線が中共中央を支配するようになった一九三一年九月二〇日から一九三二年五月一一日の間に中共中央が発した九本の文件にたいし毛沢東が一九四一年下半期に書き上げた九編の文章のことで、それは五万字を超す長編とのこと。
 当時、毛沢東は中共中央の路線問題を解明する目的をもって『六大以来』という文件集を編集中で、「九編の文章」はその過程で書いた「読書筆記」(胡喬木の評価)であり、高文謙が書いているような「党内通信」ではない。毛沢東は当時、劉少奇、任弼時にだけ見せて意見を求めた。毛沢東の秘書をしていたため胡喬木も当時これを見ており、彼によると公表することを前提にして書かれたものではなく、周恩来を含む何人かの指導者を辛辣な言葉で批判する「激憤之作」であった。
 毛沢東は何回かこの文章に手を加え、表題だけでも三回改めた。一九六四年から翌年にかけこの文章を劉少奇、周恩来、鄧小平、彭真、康生、陳伯達、呉冷西、陳毅、謝富治、李井泉、陶鋳に閲覧させ、意見を求めている。『建国以来毛沢東文稿』第一一冊に収められた一九六五年一月二日の毛沢東の批語には「総理の名前が提起されているが、これも削除すべきである。というのは総理の一生は正しさが誤りよりもずっと多いからである」(『建国以来毛沢東文稿』第一一冊五〇頁)と周恩来を名指しで批判した部分を削除することを表明している。
 その年の五月に毛沢東はさらに重要な内容の修正と字句の追加を行い、表題も「駁第三次『左』傾路線(関於一九三一年九月至一九三五年一月期間中央路線的批判)」に改めた。書き改めたのはこの文章が「あまりに厳しく書いているため、誤りを犯した同志を団結させるのに不利である」と判断したためである。「現在では歳月も経ったことだし、団結に不利という問題は存在しなくなっており、幹部がこの文章を見て怒髪天を突き、誤りを犯した同志が誤りを改めるのを許さず、『前の誤りを後の戒めとし、病を治して人を救う』という党の政策を破壊するようなことにはならない」(前同書五〇頁)と考えた。この時点でほぼ「定稿」に近づいた。しかしその後、この文章は公開されたことも、内部で発表されたこともなかったという。
 一九七四年六月になって毛沢東はこの「九編の文章」をまた読み直し、劉少奇を称賛した部分をすべて削除したうえで当初は中央委員のレベルまで印刷配布するつもりだったが、それは止めにし、一部の政治局委員にのみ見せた。高文謙の記述が正しいとすれば、この時点で周恩来の名前と劉少奇を褒め称える部分を削除したことになる。高文謙の書き方によれば毛沢東がこの時に一部の政治局委員に見せた狙いは周恩来批判にあったことになるが、これまでの経緯で明らかなようにそれは事実ではなく、王明の「極左」路線批判に焦点があることは間違いない。
 しかし高文謙のような観点でこの「九編の文章」を捉え、利用しようとした者はこの当時確かに存在した。江青を筆頭とする四人組である。七五年春に張春橋、姚文元が経験主義批判という名目での周恩来攻撃を展開する。それにたいして毛沢東が「提起の仕方は修正主義反対とすべきであり、そこには経験主義と教条主義への反対を含むべきで、両者ともマルクスレーニン主義の修正であって、一方だけを取り上げて他方を取り上げないというではよくない」と批判した。これらは「九編の文章」への四人組と毛沢東の認識の違いを反映したものと見なせる。

 実は江青たちの色眼鏡で毛沢東と周恩来の関係を醜く描いた、というのが『周恩来秘録』の最も重要なポイントだと筆者は思っている。そのような視点に立ってこの本を読めば、いろいろな記述についてそれなりに「理解」できる。
 たとえば一九七四年の国連特別総会に鄧小平を派遣するにあたり毛沢東は彼の指示ではなく「外務省からの報告書の形で出すように指示した」というのには「周の態度を観察する」意図が込められていた。「国連という世界の大舞台で演説を行うチャンス」を願っていた周恩来は、毛沢東の「隠された政治的な動き」を察知したがために、やむなく鄧小平派遣を承諾したというのである。高文謙の手にかかると周恩来は実に小心翼々な小役人に変身してしまう。
 周恩来を誹謗する「伍豪啓事」についても同様である。文革初期、北京大学歴史系の学生が「伍豪等脱離共党啓事」を一九三二年に発行された新聞紙面で見つけ毛沢東に手紙を書いてきたことにたいし、毛沢東は一九六八年一月一六日に「このことは早くからはっきりしており、国民党のでっち上げによる中傷である」(『建国以来毛沢東文稿』第一二冊四六三頁)と指摘している。国民党の捏造デマであることは陳雲だけでなく康生、謝富治といった連中ですら認めており、中央指導部では共通の認識になっていた。
 しかし毛沢東と周恩来は一九六八年五月八日に何人かの副総理、将軍たちと会った際にこの事件について話したところ「許世友のような六十を越えた人ですら『伍豪事件』が敵の偽造によるものだということを知らない」ことを知って驚く。その場で周恩来が事件の概要を簡単に紹介したうえで「この件についての新聞記事と私の報告をすでに影印したとともに、記録を書くことにしている」と表明した。林彪事件発生後の一九七二年六月二三日の林彪批判整風報告会の最後の全体会議で、毛沢東の意見と中共中央政治局の決定にもとづいて周恩来が「伍豪啓事」についての真相報告を行い、その録音、録音記録稿および関連文献資料を中央档案館で保存し、また省・市・自治区档案館にも保存することを宣言した(劉武生著『周恩来的晩年歳月』一五〇~一五一頁)。

 ではなぜ周恩来は一九七五年九月二〇日、手術室に入る前に一九七二年六月の「伍豪啓事」問題での報告録音記録稿に署名をしたのか。江青一味が毛沢東の指示と中央政治局の決定にしたがってこの周恩来の報告記録類を中央档案館に保存する手続きを取っていなかった。自分や毛沢東の死後に江青らがこの問題を使って悪事を働く恐れが予測されるのでそれを封じるためである。
 一つ一つ事実を検証していけば高文謙の描く周恩来像、毛沢東像が如何にゆがめられたものであるかはもっとはっきりするであろう。その紙幅もないのでこの本の最も「衝撃的」と思われている部分を検証してみよう。

 「周恩来とはいかなる人物であったか?」(原文では「引子」)という冒頭部分と「エピローグ」(尾声)はいずれも周恩来が死去した後の毛沢東の対応の冷酷ぶりについて書いている。そこで指摘されている事実は要約すると二点になる。
 一、歩けないことを理由に周恩来の追悼会に参加しなかったが、追悼会の数日後にニクソン前大統領の娘夫妻を接見した。
 二、それどころか、周恩来の死にたいして爆竹を鳴らして祝賀した。
 毛沢東の身辺の世話をしていた張玉鳳の回想(鄭冝、賈梅編『一九四六-一九七六 毛沢東生活実録』江蘇文芸出版社 八九年六月の一八七頁~一九〇頁に収録)を偏見を持たずに読めばよい。彼自身が歩くこともできないほど体力が弱っていたから追悼会には参加しなかったのであり、爆竹を鳴らしたのは彼の身辺の世話をしてくれている工作員たちを慰労する気持ちからである。いずれも何ら抵抗なしに理解できる行動である。
 では追悼会に参加できないほど体力が弱っていたとしたら、その数日後にニクソン前大統領の娘夫妻を接見した(上巻、四頁)とはどういうことなのか。実はこの部分は中文版では「幾天之前」(数日前)であって、「数日後」ではない。
 当時の『人民日報』を調べてみると、実は毛沢東がニクソン前大統領の娘ジュリー・ニクソンとその夫のデービッド・アイゼンハワー(祖父は第三四代アメリカ大統領のドワイト・D・アイゼンハワー)に接見したのは周恩来が死去する前の一九七五年一二月三一日である。追悼会の開催は一月一五日なのだから「数日後」と訳すのは間違いだが、半月も前のことを「数日前」と書くのも悪意を持ったねじ曲げに他ならない。

 中国側がニクソン前大統領の娘夫妻を中国に招いて歓待したことには明確な目標があった。ニクソンは四年前の一九七二年二月二一日にアメリカ大統領として初めて中国を訪問し、長い間敵対関係にあった中国との関係の歴史的転換を実現させた。彼は次の任期内に中国との国交樹立することを目標としていたが、途中でウォーターゲート事件が発生し、一九七四年八月に辞任に追い込まれ、国交樹立問題は停滞状態に陥った。
 この局面を打開するため、まずニクソンの娘夫妻を中国に招き、ついで二月にニクソン前大統領本人と夫人を招いたのである。二月二二日にはニクソン夫妻は鄧穎超を訪問して彼女を慰問し、翌二三日には毛沢東と会見している。四年前と同様、この年の一一月には米国の大統領選挙が控えている。ぜひともアメリカとの国交樹立を生きている間に実現させたい、とする毛沢東の強い意志表明であったと受け止めることができよう。周恩来の死去をめぐってさも不可解な出来事が発生したかのように書き立てる高文謙の冷酷さのほうが目立つ。自分の目的を達成するためには平気で事実をねじ曲げ、嘘も書く、という文風は一体誰から学んだものなのか。

 二〇〇三年一二月に中央文献研究室は巨著『毛沢東伝 1949-1976』を出版し、未公開の档案資料を駆使した建国後の毛沢東像を描いた。資料を以て語らせるという姿勢が明確で、型にはまった毛沢東像とは違う、かなり複雑な心理状態まで見えてくる内容となっている。残念ながら日本語版はまだ出ていない。
 同じく中央文献研究室が出した『周恩来伝 1949-1976』の日本語版は岩波書店から出版されている。文革初期にスケープゴートにされた王力の『王力反思録』(香港北星出版社)や『陳伯達遺稿-獄中自述及其他』(天地図書)なども香港で出版されている。
 その一方でキワモノと呼ぶにふさわしいものが日本の書店を賑わし、マスコミも無責任な書評なるもので褒めそやしている。はたしてそんなことでいいのだろうか。なお張戎ほか『マオ 誰も知らなかった毛沢東』については矢吹晋著『激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実』(日経BP社)が暴いている。
  中国研究所『中国研究月報』2007年9月号掲載

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