愛国主義と国際主義

二十一世紀における愛国主義と国際主義とは何か

 共産主義動の創始者であるマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』の最後で「万国のプロレタリア、団結せよ!」と呼びかけていることが象徴しているように、共産主義運動とはそもそも国境の枠を越えた国際主義的な性格を持っている。
 中国共産党もその誕生以来、国際共産主義運動の大河のなかで育ち、発展してきた。
 もちろんこの大河の流れは実に波瀾万丈、曲折に富んだものであって、一本のまっすぐな流れではありえなかった。そのなかで毛沢東を筆頭とする中国の共産主義者はマルクス・レーニン主義の普遍的真理と中国の具体的な状況とを結びつけるという革命の道を開拓し、中国革命を勝利に導いた。
 それに続く社会主義建設において、さまざまな曲折を経ながら、鄧小平の時代になって、中国の特色をもつ社会主義の建設という方向を探し当てた。
 大きな流れとしてはこれらはマルクス主義の中国化と捉えることができよう。マルクスやレーニンの時代にはまったく問題にされなかった、あるいは否定的にしか取り上げられなかった愛国主義、民族主義の課題が中国で提起されるようになったことには積極的な意義がある。
 時代も異なり、国情も違うわけだから、マルクス、レーニン、毛沢東の書物に答案を求めようとする保守的で教条的な姿勢では歴史の流れから取り残されてしまう。新しい天地を開拓する意気込みが必要である。
 しかし中国の特色をもつ社会主義の建設を実現するのが第一の課題となっているのだから、国際主義の思想教育はもう時代遅れである、不要となった、と言えるのだろうか。
 今の段階は愛国主義に訴えて中華民族の団結と振興をはかる段階であり、総合国力を増強させてはじめて国際主義を語ることができる、と考えるべきなのだろうか。
 私はこのような考え方は正しくないと考える。

 愛国主義と国際主義は車の両輪であって、一方だけに頼ったのでは必ず道を誤ることになる。道を誤った事例をわれわれは日本および中国の歴史からいろいろと見いだすことができる。この点で最近の中国および日本におけるそれぞれの愛国主義偏重の傾向には危惧の念を抱かざるを得ない。
 国際主義についての解釈において、旧来のプロレタリア国際主義といった狭い枠に囚われる必要はまったくない。
 私はもっと幅広く、国境や民族の枠を越えた、人民と人民との相互の理解と団結を求める連帯の思想と解釈すべきだと思う。人々はそれぞれが生きる場としては国家や社会という具体的な枠から抜け出すことはできない。その人が属する国家の政治体制や経済制度に違いはあるし、背負っている歴史や文化が異なり、生活レベル、教育レベルもさまざまである。当然のことながら誤解や摩擦は発生しうる。
 摩擦や対立の発生を恐れる必要はない。それはものごとが運動する時に当然発生するきわめて自然な現象である。ただ大切なのは、人民と人民の間には根本的な利害の対立は存在しないという信念を持つことだと思う。
 そのような強い信念があれば摩擦や対立が発生しても、それをを激化させ敵対的な形にまで発展させることなく、平和的、友好的に解決できるし、またそのように導く英知を発揮すべきである。
 毛沢東はかつて「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」という論文で、社会主義社会には二種類の性質を異にする矛盾が存在する。それは敵味方の間の矛盾と人民内部の矛盾である。人民内部の矛盾とは人民の利益の根本的一致を土台とする矛盾のことである、という観点を提起した。
 これは矛盾といえばすべて敵対的なものと捉える旧い枠を突破した新しい視点である。われわれはこの視点を国家という枠を越えた範囲で発展させる必要があるのでないか。
 その意味で国際主義の精神とは何か、ということを真剣に見つめなおすべきではないだろうか。

 「愛国主義と国際主義について-『人民日報』社説を素材にした分析-」(日中コミュニケーション研究会編『日中相互理解とメディアの役割』日本僑報社 2002年7月 所収)