人民日報社説から見た中国の歴史

『人民日報』元旦社説から見た中華人民共和国の歴史
村田 忠禧

1. はじめに

 筆者はかつて中華人民共和国建国以来の中国共産党の全国代表大会(1956年の八大から1997年の十五大まで、以下は「党大会」と称する)における政治報告の用字、用語の出現回数の変化から中国の政治の変動を見る、というテーマでの研究報告を行った。
 その研究を行う過程で実感したことは、用字、用語の頻度統計による計量分析の方法には、複雑な社会現象を数値で単純に割り切ろうとする一面的な側面が確かに存在するが、主観に左右されない、客観的データにもとづく判断が可能となるという積極的側面も存在するということであった。この方法によればさまざまな語彙の出現頻度の変化を通して歴史の変動ぶりを知ることができるだけでなく、これまであまり明確に意識していなかった問題の存在に気付くこともあった。
 その具体的な例として、十三期党大会以降の政治報告には、旧来のマルクス主義の枠には囚われない用語が登場することになった事実などを挙げることができる。詳しくは村田1999の拙論1)を参照していただきたい。
 本研究はこの政治報告の分析で行った方法論を他の分野に適用する試みである。そもそも統計分析が科学的有効性を発揮するためには、対象となる素材が量的にも、質的にも一定の安定性を有していなければならない。そのような条件を備えた対象として筆者が選んだのは中国共産党中央委員会機関紙の『人民日報』元旦社説である。

2. 政治報告と人民日報元旦社説の比較

 党大会政治報告、『人民日報』元旦社説いずれも、特定の時期における中国共産党の基本政策を内外に公表する重要文献である。両者を比較してみると次のような特徴がある。
 内容の重要さ、注目される度合いからいえば、政治報告のほうがはるかに上位を占めることは間違いない。
 そもそも中国では西暦の元旦よりも農暦における新年の開始を祝う春節のほうが人々の生活において重要な位置を占めている。国慶節(10月1日)やメーデー(5月1日)を迎えるにあたって中共中央はそれを記念するための通知、宣伝スローガンなどを具体的に規定して伝達した時期もあったが、新年を迎えるにあたって特別にそのような措置をとったことはない。2)
 政治報告、元旦社説いずれも過去を振り返り未来を展望するという形式では共通するが、前者は原則として五年を単位とし、後者は一年を単位としている。政治報告は中央委員会による党の方針、政策、活動の点検と展望の報告であり、全国代表大会に出席した代表がその報告を聴取し、審査し、採択する。報告内容とその表現形式、さらには使用する語彙もきわめて類型化されている。
 『人民日報』社説の執筆規定を筆者は管見にして未詳であるが、毛沢東、陳雲、胡喬木などが執筆したものもあり、周恩来や陳伯達なども特定の時期にその内容の確定に重要な役割をはたしている。『人民日報』社説はそれぞれの時期における中国共産党の宣伝を掌る最高指導層の審査を経て公表されているものといえようが、必ずしもその執筆者が中央委員レベルであるとは限らない。
 内容においてもその時々の重要課題を取り上げるのであって、その自由度は政治報告よりもはるかに高い。元旦社説の場合、新しい年の特徴を読者の脳裏に強く印象づけようという意図から、詩詞や成語の援用という文学的技巧を活用することもあり、語彙や表現形式はあまり類型化されていない。
 文書の分量においても、八大二次会議をも含めた八大から十五大までの政治報告で使用されている漢字数(以下、本文では文字数と呼ぶが、英字、数字、記号などを除いた漢字だけの数を指す)は平均すると25,574字であるのにたいし、1949年から2002年までの元旦社説の平均文字数は3,089字。政治報告のほぼ八分の一である。情報量という点でも政治報告のほうが優勢を占める。
 党大会は党規約のうえでは五年ごとに開催するものと規定されているが、実際にその通り開催されるようになったのは1982年の十二回党大会以降のことである。
 一方、『人民日報』元旦社説は1949年から毎年欠かさず発表されており、この毎年1月1日に必ず発表されるという事実はとても貴重なものである。この点は『人民日報』の社説でも他に類を見ないものである。例えば建国以来の国慶節(10月1日)の社説は1950年、1971年、1979年、1980年、1986年には発表されていない。筆者が『人民日報』の社説のなかでも元旦社説を分析対象に選定した理由の一つはこの定期性にある。
 このように政治報告と元旦社説には性格を異にする面も存在するが、いずれも中国共産党の当面する政策や方針を明らかにしたものとしては重要な位置を占めている。

3. 元旦社説の概要

 毎年必ず発表されてきたのが元旦社説の貴重な点であると述べたが、以下にその表題を列挙してみる。
1949 将革命進行到底
1950 完成勝利,鞏固勝利 迎接一九五零年元旦
1951 在偉大愛国主義旗幟下鞏固我們的偉大祖国
1952 以高度的信心和堅強的意志迎接一九五二年
1953 迎接一九五三年的偉大任務
1954 一切為了実現国家的総路線
1955 迎接一九五五年的任務
1956 為全面地提早完成和超額完成五年計劃而奮闘
1957 新年的展望
1958 乗風破浪
1959 迎接新的更偉大的勝利
1960 展望六十年代
1961 団結一致,依靠群衆,争取世界和平和国内社会主義建設的新勝利
1962 新年献詞
1963 鞏固偉大成績 争取新的勝利
1964 乗勝前進
1965 争取社会主義事業新勝利的保証
1966 迎接第三個五年計劃的第一年――一九六六年
1967 把無産階級文化大革命進行到底
1968 迎接無産階級文化大革命的全面勝利
1969 用毛沢東思想統帥一切
1970 迎接偉大的七十年代
1971 沿着毛主席革命路線勝利前進
1972 団結起来,争取更大的勝利
1973 新年献詞
1974 元旦献詞
1975 新年献詞
1976 世上無難事 只要肯登攀
1977 乗勝前進
1978 光明的中国
1979 把主要精力集中到生産建設上来
1980 迎接大有作為的年代
1981 在安定団結的基礎上,実現国民経済調整的巨大任務
1982 一年更比一年好 定叫今年勝去年
1983 為我們的偉大事業増添新的光彩
1984 勇于開創新局面
1985 和衷共済搞四化
1986 譲愚公精神満神州
1987 堅持四項基本原則是搞好改革、開放的根本保証
1988 迎接改革的第十年
1989 同心同徳 艱苦奮闘
1990 満懐信心迎接九十年代
1991 為進一歩穏定発展而奮闘
1992 在改革開放中穏歩発展
1993 団結奮進
1994 艱苦奮闘 再創輝煌
1995 総攬全局 乗勢前進
1996 満懐信心奪取新勝利
1997 把握大局 再接再厲 同心同徳 開拓前進
1998 在十五大精神指引下勝利前進
1999 団結奮闘創造新業績
2000 迎接新世紀的曙光
2001 邁進光輝燦爛的新世紀
2002 邁出中華民族偉大復興的新歩伐

 これらの表題をざっと眺めただけでも時代の雰囲気というものを窺い知ることができる。1949年の元旦社説は毛沢東が執筆し、『毛沢東選集』第四巻に収められていることは周知の事実である。文化大革命勃発後の1967年元旦社説の内容は毛沢東が審査し確定したものである。
 1951年、1953年、1958年の元旦社説は胡喬木が執筆したものであることは『胡喬木文集』第一巻(人民出版社、1992年5月)を見れば明らかである。なお胡喬木はこの他にも数多くの『人民日報』社説を執筆している。
 1967年の元旦社説は『紅旗』との共同社説、翌1968年から1978年(1976年を除く)までは『人民日報』、『紅旗』、『解放軍報』という中共中央の両報一刊共同社説という形態で発表されており、中国の内外政策に関する確かな情報があまり公開されない当時としては、中国の動向を判断する貴重な情報源になっていた。
 元旦社説の分量を示す本文に用いられた文字数は、平均すると3,089字、最大は1967年の8,381字、最小は1982年の995字である。1949年から文革直前の1966年までは平均で4,146字、1967年から1978年までは平均すると3,935字になり、一見すると文革前と大差ないように見えるが、これは1967年が8,381字と異常に多いことで平均を押し上げたためである。
 改革・開放期にあたる1979年から2002年までの平均は1,906字で、1979年以降はそれ以前の時期に比べて半分以下になっている。ちなみに2002年の元旦社説は1,623字である。
 『人民日報』の社説全体をみると1949年から2001年までの年平均の本数は131本、社説1本当たりの文字数は1,791字である。そのうち1949年から1966年まででは年平均258本、文字数では2,260字であるのにたいして、1967年から1978年の間では年平均68本、文字数は1,552字。1979年から2001年では年平均64本、文字数が1,549字である。総体的にみて1955年から1960年までが『人民日報』社説のピークで、この時期には年平均390本、文字数も2,440字と多かったが、1961年以降になると本数、分量いずれにおいても下降する。1978年から1983年の間では年平均132本、文字数1,823字とやや回復するが、その後は年平均45本とふたたび少なくなる。とりわけ1998年から2001年までは年平均34本、文字数も1,526字と低め安定状態である。その傾向は今後も続くであろう。これらの数値は『人民日報』社説の占める役割が変化していることを示していると思われる。

4. 年ごとの語彙の変化

 1949年から2002年までの54年間の人民日報元旦社説の語彙の変化を紹介する。ここでの語彙調査とは政治の変動を分析するために筆者が独自に辞書を作成し、それに符合する語彙の出現回数を調べたものである。たとえば「反革命」という語彙に含まれる「革命」のような場合には筆者のほうで「革命」のなかには含まないよう処理したが、「人民解放軍」のなかに含まれる「人民」や「解放」などはそれぞれの出現回数に含めたままにしている。したがって厳密な語彙統計という点では必ずしも正確でない部分があることをあらかじめ承知していただきたい。
 前述した通り、元旦社説の分量は一定していないので、比較するにあたってはデータを標準化する必要がある。標準化するためにはまずそれぞれの年の元旦社説に出現する語彙の出現回数をその年の元旦社説の文字数で割り、その結果に元旦社説全体の平均文字数である3,089を掛けた。以下に紹介する数値はすべてこの標準化された文字数である。
 標準化した語彙の出現回数を年ごとに上位5位までを示すと以下の通りとなる。順序はその年の高頻度順。同数の場合もあるので、必ずしも5個とは限らない。

1949 人民 中国 革命 解放 国民党
1950 人民 生产 中国 解放 国家 困難
1951 中国 人民 中国人民 帝国主义 偉大
1952 工作 人民 中国 建設 発展
1953 人民 建設 国家 工業 工作 経済 計劃
(中略)
2000 人民 発展 改革 中国 民族
2001 発展 中国 建設 人民 社会主義 改革
2002 発展 建設 人民 社会主義 経済

 平均した結果の上位5番目までの語彙の変化を見てもそれなりに時代の変化は明らかになるが、しかし人民、中国など常に高い頻度で使用される常用語彙がかなり頻繁に上位に出現するため、このままでは時代の特徴を的確に把握することは難しい。ちなみに1949年から2002年までの54年間に高頻度で出現する上位10の語彙は以下の通りである。いわばこれらが現代中国を理解するうえのもっとも基本的な語彙といえる。各語彙のうしろの数字は標準化された頻度数を示す。

人民 22.4 革命 13.8 社会主義 12.7 階級 11.5 建設 11.4 発展 10.3 経済10.1 中国 8.7 工作 8.1 生産 7.2

 それぞれの語彙の年ごとの頻度数が平均に比べてどれだけ増減しているかを明らかにすれば、その語彙の突出ぶりがわかる。この突出度はそれぞれの年の語彙の出現回数と平均の出現回数(いずれも標準化されたもの)の差を平均の出現回数で割れば求められる。
 そのまま計算するときわめて稀にしか出現しない語彙が突出してしまうので、平均の出現回数が1より大きい語彙に限定し、上記の計算で上位5位になるものを示すと以下の通りとなる。配列は突出度の高い順である。

 表 1 突出順
1949 敵人 解放軍 中国人民 美国 解放
1950 厳重 困難 農民 地区 解放
1951 中国人民 侵略 中国 美帝国主義 祖国
1952 準備 中国共産党 敵人 改造 経済建設
1953 蘇聯 速度 国家 企業 技術
1954 合作 改造 農業生産 企業 工業
1955 合作 農村 和平 計劃 改造
1956 合作 改造 農業生産 先進 五年計劃
1957 五年計劃 速度 改善 生活 計劃
1958 五年計劃 矛盾 蘇聯 美国 人民群衆
1959 蘇聯 全世界 美国 増長 帝国主義
1960 蘇聯 和平 美国 国家 戦争
1961 和平 困難 厳重 工人 戦争
1962 矛盾 調整 帝国主義 侵略 民族
1963 調整 企業 国民経済 困難 農業生産
1964 地区 先進 教育 国民経済 科学
1965 矛盾 社会主義建設 民主 正確 錯誤
1966 五年計劃 先進 美帝国主義 技術 修正主義
1967 資産階級 文化大革命 無産階級革命 階級革命 無産階級
1968 文化大革命 無産階級 革命的 文化 無産階級革命
1969 毛沢東思想 毛沢東 錯誤 統一 思想
1970 全世界 帝国主義 列寧主義 偉大 専政
1971 美帝国主義 階級革命 無産階級革命 毛主席 修正主義
1972 侵略 馬克思 毛主席 列寧主義 教育
1973 干部 無産階級専政 専政 路線 毛主席
1974 修正主義 修正 批判 無産階級専政 学習
1975 批判 無産階級専政 学習 理論 馬克思
1976 無産階級専政 専政 理論 修正主義 修正
1977 全国各族人民 毛主席 馬克思 無産階級専政 党中央
1978 速度 厳重 反革命 毛主席 地区
1979 技術 現代化 先進 科学 生産
1980 調整 知識 現代化 国民経済 中心
1981 錯誤 調整 実際 精神 改善
1982 文明 全国各族人民 人民群衆 積極 歴史
1983 知識 準備 改革 全国各族人民 矛盾
1984 中心 経済建設 現代化 全国各族人民 知識
1985 中心 目標 文明 調整 改革
1986 精神 文明 改革 五年計劃 干部
1987 開放 原則 文明 全国各族人民 堅持
1988 改革 和平 全国各族人民 調整 企業
1989 改革 開放 積極 厳重 経験
1990 穏定 目標 堅持 開放 文明
1991 経済建設 中国共産党 促進 全国各族人民 穏定
1992 開放 穏定 企業 改革 原則
1993 実際 開放 精神 理論 全国各族人民
1994 理論 穏定 改革 改善 文明
1995 理論 開放 中央 統一 祖国
1996 文明 全国各族人民 統一 目標 開放
1997 文明 目標 全国各族人民 促進 精神
1998 理論 文明 経済建設 精神 中心
1999 困難 歴史 党中央 開放 奮闘
2000 人民群衆 穏定 目標 民族 奮闘
2001 現代化 理論 開放 祖国 目標
2002 文明 穏定 理論 開放 生活

 時代を反映した特徴ある語彙を知るために、つぎに平均出現回数が2より上で、平均よりも2倍以上の出現頻度を示す語彙の上位5位を列挙してみる。配列は平均に比べて倍率の高い順。空白の年はその条件に合致するものがないことを意味する。

 表 2 平均比順
1949 中国人民 美国 解放 中国 戦争
1950 解放 鞏固 戦争 民主 中国人民
1951 中国人民 中国 帝国主義 民族
1952
1953 国家 計劃
1954 工業 国家 生産 計劃
1955 和平 計劃 戦争
1956 農業
1957 生活 計劃
1958 美国
1959
1960 和平 美国
1961 和平 戦争
1962 帝国主義
1963 国民経済 鞏固 農業
1964 教育 国民経済
1965 民主 正確 社会主義
1966 毛沢東 毛沢東思想
1967 資産階級 文化大革命 無産階級 階級 資本主義 革命 路線 革命的 群衆
1968 文化大革命 無産階級 革命的 毛沢東思想 革命 毛主席 階級 毛沢東
1969 毛沢東思想 毛沢東 思想 毛主席 正確
1970 帝国主義 偉大 毛主席 毛沢東思想
1971 毛主席 毛沢東思想
1972 毛主席
1973 幹部 路線
1974 正確 文化大革命
1975 加強 毛主席 鞏固
1976 階級 闘争 文化大革命 資産階級 無産階級 毛主席 革命的 革命
1977 毛主席
1978 毛主席
1979 生産
1980 国民経済 団結
1981 精神 国民経済
1982 積極 歴史 精神
1983 改革
1984 精神
1985 改革 国家
1986 精神 改革 幹部
1987 堅持 資産階級 改革 民主
1988 改革 和平
1989 改革 積極
1990 堅持 奮闘
1991 奮闘
1992 改革 堅持 積極 中央
1993 精神 団結 歴史
1994 改革 精神 幹部
1995 中央
1996 中央 幹部
1997 精神 中央 改革
1998 精神 中央 堅持 建設
1999 歴史 奮闘
2000 民族 奮闘 改革
2001 改革 民族 中国
2002 生活 奮闘 精神 民族 中央

表1 突出順と表2 平均比順は異なった角度からそれぞれの年に突出する語彙を表示させたものであり、この他にも抽出条件をさまざまに変化させることでさらに多くの結果を引き出せる。しかしこの二つの抽出条件からだけでもいくつか興味深い情報を得ることができる。いずれの表においてもそこに列挙されている語彙から、いくつかの時期に分けることが可能であることが見て取れる。
 例えば1954年から1956年までを表1に注目して見ると、農業合作化に関連する語彙が多いことがわかるし、表2に注目して見ると、「農業」、「工業」、「国家」、「計画」という語彙が多く、これは第一次五カ年計画と関連することがわかる。もう一つの事例を挙げれば、表1によると1967年から1976年までに出現する語彙は他の時期の上位には登場しない階級闘争や修正主義批判に関係する語彙ばかりである。表2でも同様な結果が出ているが、「毛沢東思想」という語彙の突出は1966年から始まっている。また毛沢東への個人崇拝の色彩の濃い「毛主席」という表現は1968年から1978年まで続く。歴史的転換といわれる1978年12月の中共十一期三中総以後の元旦社説が経済建設を第一とする改革開放政策の推進であることは1979年以降の表1、表2の語彙からはっきりと知ることができる。
 ある年に突出している語彙が他の年でどのように現れているのかを見ることで、その年と他の年との関連の有無を知ることができる。2002年の突出した語彙の1979年以降との関連性を示すと以下のような結果になる。空白はその語彙がそもそも出現しないことを意味している。

表 3 2002年に突出した語彙


 表3が表現しているのは2002年に突出した上位10の語彙の1979年以来の突出の度合いである。例えば2002年にもっとも突出した語彙となった「文明」は1986年から1987年までと1996年から1998年までの時期にもかなり突出している。いずれの時期においても「物質文明」と「精神文明」、とりわけ後者を強調している。2002年に2位の突出度を示す「穏定」がもっとも突出したのは1990年であり、それは前年に発生した政治風波と大いに関係する。1990年の時期には「穏定圧倒一切」というスローガンに示されるように、あらゆる分野での安定、とりわけ政治的安定が強調された。その後も政治、経済、社会の安定が呼びかけられるが、近年は「社会穏定」が多く語られ、「政治穏定」はかつてほどには強調されてはいない。3位の「理論」は鄧小平理論という提起の仕方が正式になされた十五回党大会の翌年である1998年がもっとも突出しているが、1993年以降、鄧小平が提起した「建設有中国特色的社会主義的理論」(中国の特色ある社会主義を建設する理論)という形ですでにその素地ができていたことがこの表からも窺える。
 「開放」がもっとも突出するのは1987年と1992年だが、それはこれらの年の元旦社説の表題そのものに「改革開放」が含まれていることと密接に関係している。とりわけ1992年に「開放」が突出していることは興味深い事実である。というのは鄧小平が1992年1月18日から2月21日にかけて武昌、深圳、珠海、上海を視察した際に発表した談話が「南巡講話」と称され、大胆な改革・開放の号令を発したものと一般に理解されているが、実は「南巡講話」前の1992年元旦社説が「改革開放のなかを安定的に発展しよう」と折衷的な提起の仕方ではあるが、改革の深化、開放の拡大を強調している。
 これは1991年1月28日から2月18日にかけて、鄧小平が上海を視察し、同年8月20日に中央の責任者と行なった談話において、安定を強調することは正しいが、あまりに安定を強調しすぎると時機を失する恐れがあるとして、安定第一を掲げる江沢民ら党執行部の政策に実質的な批判を加えたことと緊密に関係する3)。その後「南巡講話」が威力を発揮し、中共中央内部での「穏定」と「改革開放」との関係についての認識が一致した結果、1993年の元旦社説ではそれまで高い頻度を示してきた「穏定」が突如平均以下に後退することになる。このようにキーワードの出現頻度の変化という数値の流れを通して、1979年以降の改革開放政策の継承と発展および変動の情況が把握できる。

5.時期ごとの語彙の変化

 これまで示した表1~表3の結果から、突出した語彙は一定のまとまりをもったグループとして出現している場合が多いことがわかった。そこで元旦社説を適当な時期に区分してグループごとに比較してみる。ただし元旦社説のみに依拠して時期区分をすることは乱暴なやり方であり、ここではあくまでも比較分析をするための臨時的な措置である。1949年から2002年までを以下のように12のグループに区分する。1949~1953年、1954~1956年、1957~1962年、1963年~1966年、1967~1971年、1972~1976年、1977~1978年、1979~1982年、1983~1987年、1988~1992年、1993~1997年、1998~2002年。
 総合して高頻度で出現する上位8の語彙について、それぞれの時期と平均との差を平均で割ることで増減の度合いを示すと表4のようになる。
表4 時期ごとの高頻度語彙


 語彙としては「人民」が一番多いが、その出現は1949年から1953年の時期にやや平均より多いが、その後はあまり大きな差は見られない。それに比べて「革命」は1967年から1978年までの時期に突出し、その他の時期ではいずれも平均以下である。似た傾向の現れ方を示すのが「階級」である。それと対照的な現れ方を示しているのが「社会主義」であり、1954年から1966年までと1983年から2002年までの時期で平均を上回っている。「建設」、「発展」、「経済」もそれと似た現れ方を示している。「中国」という語彙は建国初期と1988年以降が平均を上回っている。これは愛国主義の発揚と関係するものと思われる。
 平均出現回数が1以上で、1998~2002年に平均に比べて突出度の多かった語彙を10並べると表5のようになる。空白部分は語彙が出現しないことを意味する。
 表 5 1998~2002年に突出した語彙



 「理論」が登場する時期は二度あり、一つは1967年から1978年まで、もう一つは1988年から2002年までである。前者は「無産階級専政理論」を指し、後者は「建設有中国特色社会主義理論」すなわち「鄧小平理論」を指すのであって、「理論」の内容はまったく異なる。「文明」、「開放」、「穏定」、「奮闘」、「精神」、「現代化」、「改革」といった語彙は1979年あるいは1983年以来、常に平均より多い現れ方を示していることは注目に値する。他の時期についても同様に突出度の多い順に抽出してみると、その時期の他の時期との関連性の有無が明らかになる。1983~1987年を例に挙げると以下の通りとなる。
 表 6 1983~1987年に突出した語彙


 表5と表6とでは10位以内に入る語彙が5も共通している。しかし表6が示す通り、「原則」が1993年以降に顕著な後退を示す。1983年から1992年までの間の「原則」は主に「四項基本原則」として登場していた。それに代わるものとして「理論」、すなわち「鄧小平理論」が登場してくるのである。なお1967~1978年にも「原則」は平均以上を示すが、この時期の「原則」は特定の語彙を指しているわけではない。このような例外はあるが、全体としては1983年から2002年までの時期に出現する頻度数の多い語彙は類似していることがわかる。つまり政策の継続性が反映されていると見なしてよい。この点は1979年から1982年には見られない現象であり、改革・開放政策の展開ぶりをこれらの違いから見て取ることができる。

6. 社会主義を含む語彙の変化

 社会主義の複合語の変化からも現代中国の歴史を知ることができる。以下に主要な複合語を平均に比べての突出の度合いを表示する。配列は平均での高頻度順。

表 7 社会主義複合語


 表7は非常に興味深い事実をいくつか提示している。第一に、「社会主義」という語彙が平均より多い時期は1954~1966年と1983~2002年であるということ。1954~1966年に多いのは「社会主義建設」という語彙が重要な要素となったためであり、その他にも「社会主義国家」、「社会主義陣営」、「社会主義改造」、「社会主義社会」、「社会主義教育」などが個々の時期に突出することで1954~1966年全体を押し上げている。「社会主義教育」が1963~1966年に急激に増えているが、これは「社会主義教育運動」という特定の政治運動を指している。表には現れないが農業生産合作社への「半社会主義」的性質という評価も社会主義の数を押し上げている。それにたいして1983~2002年では「社会主義現代化建設」と1990年から登場する「建設有中国特色社会主義」が重要な押し上げ要素となっており、このほかに「社会主義制度」、「社会主義道路」は徐々に減少していく傾向を見せながら、また「社会主義民主」という語彙は時期によって起伏を示しながら、全体として1983~2002年を押し上げている。それにたいして相対的に「社会主義」が低調な1967~1982年では「社会主義革命」という語彙が平均以上を示している。なおこの時期に特殊に現れる語彙としては「社会主義歴史階段」がある。
つまり「社会主義」の複合語彙からみると、大きな流れとしては1954年から1966年までは「社会主義建設」、時期的には一部重複するが1963年から1978年までが「社会主義革命」、1979年からは「社会主義現代化建設」に力点が移り、1990年以降はさらに「建設有中国特色社会主義」が強調されるようになった、と概括できよう。歴史発展の原理からすれば、革命が成功した後は建設に重点が移行するというのが通例であるが、1960年代半ばから「社会主義革命」が台頭するという逆転現象が発生している。これは社会主義社会における主要な矛盾は依然としてプロレタリア階級とブルジョア階級の矛盾である、という毛沢東のプロレタリア独裁下における継続革命理論の登場によるものであることは明白である。なお頻度数が少ないためこの表には現れていない語彙として「社会主義市場経済」があるが、それは1993~1996年に合計9回 (実数) 登場したが、その後の元旦社説では登場していないことも注目される。

7. まとめ

 元旦社説は平均すると3,000字前後の短い文章であるが、毎年1月1日には必ず発表されるという確実さがある。そのため「定点観測」が可能になるであろうと予測して分析を行なったが、これまで紹介した事例はその予測の正しさを実証している。元旦社説のように毎年必ずあるわけではないが、「定点」となりうるものとして、5月4日、7月1日、10月1日などの社説が挙げられる。それらの分析をも加えると、より全面的な内容になりうることはいうまでもない。本論で紹介した事例はいずれも高頻度で出現する語彙の変化であり、このような基本語彙の変動からでも、マクロ的な歴史の変動を客観的に把握することができる。これらの数値が示している結果は従来の歴史解釈を覆すものではなく、より補強するものである。そのことは語彙の頻度統計分析が有効であることを証明しているといえる。
 では語彙の頻度統計分析はただ旧来の研究方法を再確認するだけであって、それ自身が発揮できる優位性はないのだろうか。本論で紹介した「穏定」と「開放」の関係、あるいは「社会主義」を含む語彙の変化が明らかにしていることは、きわめて示唆に富む。
 中国現代史を理解するうえの基本語彙の現れ方は時代によって実にさまざまであり、その変化から歴史そのものの変化を読み取ることは十分に可能である。そこで見つけ出した基本語彙の注目すべき現れ方に着目し、そこからさらに基本語彙を含む文脈にまで分析のメスを入れることで、ミクロ的世界にまで入り込んだ、よりイキイキとした歴史分析が可能となる。語彙の頻度統計分析はその第一歩である。
 本論では紙幅の関係でそこまで紹介することはできなかったが、筆者はすでに『人民日報』社説において「愛国主義」と「国際主義」という語彙の現れ方について分析し、1990年代に「国際主義」が極端に少なくなり、「愛国主義」一辺倒になっているという実態を明らかにした4)。今後、同様な方法でいくつかのキーワードを分析することで、中国現代史の科学的な分析は可能である、との認識をよりいっそう持つようになったことを明らかにして、今回の報告のまとめとしたい。

 1) 村田忠禧「通過対字詞使用的計量分析研究中共党史-以政治報告為素材」、中共中央党史研究室『中共党史研究』、1999年第4期,1999年7月,pp.79—84, および「中共党大会政治報告の用字・用語の変化と中国政治の変動」、日本現代中国学会発行『現代中国』第73号、1999年10月、pp.44~68
 2) たとえば『中国共産党宣伝工作文献選編』、学習出版社、第四巻「中共中央関於一九五七年国慶節紀年辦法的通知」、1957年9月15日を参照のこと。
 3) 中共中央文献研究室編『鄧小平思想年譜 一九七五~一九九七』、中央文献出版社、1998年11月、pp.455~456
 4) 村田忠禧「愛国主義と国際主義について」、2001年11月23日、第二回日中コミュニケーション国際シンポジウムで発表した論文


          2002年1月23日
          2002年4月19日改稿
日本現代中国学会『現代中国』76号 2002年10月発行掲載

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