建国60周年の中国と日本

建国60周年の中国と日本
今後の日中友好交流のあり方を考える

横浜国立大学 村田 忠禧

1 改革開放30年の足どり
 1949年10月 中華人民共和国建国(今年は建国60周年) 1957年以降、中共内部での路線の対立が顕在化
 1966年~1976年 文化大革命 76年9月 毛沢東死去 10月「四人組」逮捕
 1978年12月 中共十一期三中総 毛沢東の「階級闘争至上主義」路線から鄧小平の「経済建設第一」の改革開放路線へと転換
 鄧小平は中国の現実から出発することの大切さを強調。「実事求是」(実際に基づいて真理を追求する)「実践こそ真理を検証する唯一の基準である」という毛沢東思想の原点に立ち戻ることを提唱し、毛沢東思想を中国共産党の集団的英知の結晶であるとして、その堅持を主張する。かつてスターリン死後にフルシチョフがスターリン批判を行ったのとは異なる対応を示し、毛沢東や文化大革命についての評価をあまり具体化させず、むしろ現実的課題である現代化建設を優先させる方針を出した。
 日本政府は中国の改革開放政策を積極的に評価し、政府開発援助(対中ODA)を開始し、中国のインフラ整備に協力。
・限定された地域で実験的に資本主義社会のやり方を学ぶ
 経済特区(深圳、珠海、汕頭、厦門)を設け、そこでの経験を徐々に全国に拡大していく(足元を確かめながら川を渡る)
・「先富論」の提起
 文革期には個人の能力を活かしてよい成果を得ようと努力すると「資本主義の芽」として危険視され、摘まれた。鄧小平は「貧困は社会主義ではない」として、このような悪平等思想を批判し、条件の備わった人や地域が各自の努力で他より先に豊かになることを奨励した。これは人々の思想を解放するうえで重要な役割を果たした。同時に鄧小平は「共に豊かになる」ことが社会主義の最終目標である、とも述べていたが、こちらのほうはあまり重視されてこなかった。
・農村の人民公社の解体
 社会主義農業の前途=集団化=「人民公社」と言われてきたが、農村は疲弊していた。安徽省の貧困にあえぐ農民たちは家庭単位の生産請負制を選択し、その動きは瞬く間に全国に波及し、中国式社会主義の代名詞ともいわれた人民公社は解体した。
農家生産請負制は生産と収入が連動するため、農民の労働意欲が増大し、農村に活気が生まれ「万元戸」という言葉も生まれた。
 しかし家庭単位の小農経営だけでは限界がある。農業など第一次産業の成長はそもそも第二次、第三次産業に比べて緩やか。政府も農業発展への支援策を出さなかったため、都市部に比べ農村の発展は緩慢で、90年代になると都市部は急速な発展をするが、農村は取り残され、格差がいっそう拡大した。
 農民は現金収入を求め都市に流入。中国には農業戸籍と非農業戸籍という二元的戸籍管理体制が存在し、農民の都市への移動は制限されていたが、改革開放の進展で、大量の労働力が必要となり、農民は農民工として都市の建設現場や沿海部の労働集約型工場に流入し、低賃金労働力の供給源として中国の急速な発展を下から支えた。
 人民公社を盛んに宣伝していた時代には、農民の集団主義、刻苦奮闘の革命的精神の発揚が大いに讃えられた。その代表が山西省昔陽県の大寨で、当時は「工業は大慶に学び、農業は大寨に学ぶ」というスローガンがいたるところで見られた。
 人民公社解体後の大寨がどのようになったのか、本年3月21日に大寨を訪れた。かつては荒れ果てた山を開墾して段々畑にして食糧増産に邁進したのだが、今では傾斜が緩やかで食糧生産に適したところは畑として利用しているが、急傾斜地には植林がなされ、アンズなど果実のなる木も栽培されていた。食糧だけでなく、加工食品の生産をはじめとする多角経営を実施するとともに、大寨という知名度を活かした観光業(紅色旅游)も進めている。全国の農村が大寨と同様な状態とは言えなかろうが、新農村建設の一つの事例と見ることはできる。
・沿海部の発展と「社会主義」についての認識の変化
 人々の脳裏には「資本主義=市場経済」、「社会主義=計画経済」といった固定観念が根強く存在していた。改革開放の深化に伴って人々の認識も次第に変化していった。
 1982年に現行憲法が制定される(1954年、1975年、1978年に次いで四度目)
 その後、部分的に改正される。1988年4月の憲法改正では私営経済の存在とその発展が承認された。
 1987年の党大会政治報告で「社会主義初級段階論」が提起され、1992年になると「社会主義市場経済体制の樹立」が課題とされ、資本主義か社会主義かという看板の色を気にする風潮は収まっていった。
 1989年の天安門事件を契機に、全世界的に「民主化」の嵐が吹き荒れ、東欧・ソ連の社会主義政権は相次いで崩壊していったが、中国は崩壊せず、むしろ90年代半ばから経済の急速な発展が見られた。
 1993年3月の憲法改正では国営経済から国有経済に改められ、1999年3月になると「非公有経済」を重要な経済要素として承認し、2004年3月の憲法改定では私有財産の保護を明記するにいたった。
・80年代からインフラ整備と外資導入の対外開放政策を積極的に推進
 1992年の鄧小平の「南巡講話」で中国は活気づく。
 外資(台湾企業も含む)は中国に積極的に進出し、中国は世界の工場となる。中国自身にとっても就業と投資の機会確保、産業育成、先進的経験の習得など、多くの面でプラス効果をもたらした。
 2001年12月にWTO加盟 世界との関係性がより強まった。WTO加盟で輸出が大幅に伸びた。これは中国の企業が外資との結びつきが強いことの反映。
 改革開放当初は東部・沿海地帯を重点的に発展させる政策を採用したが、経済に体力・活力が付いた1999年になると次のステップとしての「西部大開発」構想が提起され、2003年には「東北(国有企業が多い)振興」、「中部(既存インフラがそれなりに整備されている)の勃興」という方針を出され、次第にバランスある発展を目指すようになってきた。

2 胡錦濤・温家宝体制の特徴
・後継者の育成、抜擢
 毛沢東は後継者問題を正しく解決できなかった(劉少奇、林彪、王洪文、華国鋒)。
 しかも文化大革命期の入党者には資質や能力に問題がある者が多くいた。
 現代化を実現するためには若くて才能があり、しかも専門知識を持った優秀な幹部を大量に育成する必要があった。鄧小平たちは幾層にも及ぶ指導者群を育成し、抜擢する政策を採用した。現在の胡錦濤、温家宝などの指導者は80年代前半に発掘、育成された人材である。
 指導者に定年制(最高指導者でも70歳まで)、任期制(同一職務には二期十年まで)が導入され、指導者が定期的に入れ替わり引き継がれる体制を作り上げた。
 現在の最高指導者群は60歳代半ばで、理工系出身者が中心で、しかも内陸での活動歴が長い。2012年の党大会では習近平(1953年生まれ)、李克強(1955年生まれ)などの世代が最高指導者群を形成すると見られている。
・十七回党大会の特徴
 胡錦濤が提唱する「科学発展観」(科学的発展観)が党規約に書き加えられた。
 「和諧社会」(調和の取れた社会)、「以人為本」(人間を第一とする)、「新農村建設」「支農恵農政策」、「生態文明」、「資源節約型、環境友好型社会」といった、旧来のマルクス主義理論の枠を越えた主張が目につく。
・胡錦濤・温家宝の政治指導の特徴
 率先垂範(胡錦濤の総書記就任後の最初の視察地は河北省西柏坡だが、その際に自分の食費30元を支払ったことが大きく報じられた。指導者の視察を地元が接待することが当然視されており、そのような大衆から遊離した指導者への警鐘)、現場密着型(SARS発生時や四川大地震発生後の迅速な対応)、親民路線(エイズ患者への見舞い)、専門家の意見を尊重する政策決定(政治局の定期的集団学習の実施)など、新しい政治スタイルの定着化を目指しているが、末端まで浸透し、定着するまでにはいたっていない。そこで現在は県級指導者(県委書記など)への中央の直接指導に力を入れている。
・人民代表大会
 中国の憲法では指導政党としての共産党の役割が明記されているが、国権の最高機関は全国人民代表大会である。その構成員(現有2,982名)のうち、共産党は2,184名、民主諸党派である中国民主同盟68名、九三学社と中国民主建国会が各60名、中国民主促進会が58名、中国農工民主党が51名、中国国民党革命委員会が42名、中国致公党が35名、台湾民主自治同盟が12名、無党派あるいは明示なしが412名となっている。55の少数民族にはそれぞれ1名以上の代表がいる。少数民族に属する代表の大半は共産党員であり、民主諸党派は大半が漢族であり、全国をカバーできるのは共産党のみ。女性代表の割合は21.3%、世界51位(日本は衆院9.2%、参院18.2%で世界102位)
 1979年の「地方組織法」により、県級以上の人民代表大会にも常務委員会が設けられるようになった。
現在は北京、天津、上海、重慶、広東(以上は党委書記=中央政治局員)、チベット、新疆を除く省級人民代表大会常務委員会主任は共産党委書記が兼任。
 人民代表大会制度には代表の人数、農村部代表と都市部代表の不平等(4分の1)など改善すべき点がある。しかしこの制度が中国に着実に根ざしつつあることも事実である。
・台湾問題
1997年7月には香港が、1999年12月にはマカオが復帰し、それぞれ中華人民共和国特別行政区となった。残された課題は台湾問題である。
2004年4月に台湾の連戦・国民党主席が北京を訪問し、胡錦濤と会見。国民党と共産党との歴史的和解が実現した。
 2008年5月に国民党の馬英九が台湾の総統になったことで、「独立」「統一」をめぐる争いは鎮静化しつつあり、平和と発展のスローガンのもと、台湾海峡両岸の経済関係はより緊密さを増し、共存共栄関係を構築しつつある。
 2008年12月から、台湾と大陸の直行チャーター便が運航開始し、大陸から台湾への観光客も増えつつある。双方が現実的対応をするようになっており、陳水扁時代のように対立を挑発する動きは減少傾向にある。
・チベット問題
 2006年の青藏鉄道開通でチベットは新しい発展の段階に入った。
 一人当たりGDP 01年 139.16元→08年 395.91元
 観光客    00年 61万人→08年 225万人 といずれも大幅に増加している。
 2008年には政府当局者とダライ・ラマ側代表との交渉が5月、7月、11月と3回行われた。2009年3月28日にチベット百万農奴解放50周年記念行事が行われたが、リンカーン大統領の奴隷解放に類する出来事、と指摘することを通じて、オバマ米大統領へのメッセージを発しているものと思われる。フランスのサルコジ大統領もチベット独立を支持しない、と表明するなど、チベット問題への「外圧」は減少傾向にある。当事者双方がいっそう努力すれば問題解決の可能性はある。
・日中関係
 06年10月 安倍総理の電撃訪中(破氷)→07年4月 温家宝総理の来日(融氷)→07年12月 福田総理の訪中(迎春)→08年5月 胡錦濤国家主席の来日(暖春)と、中国側は日中関係の変化を表現している。靖国参拝問題から教訓を汲み取り、賢明な対応をとることが政治家の責務である。
 08年5月の胡錦濤訪日において「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」が発せられた。内容は多岐にわたるが、それぞれを着実に具体化することが大切。
 東シナ海のガス田共同開発を現実化させることを通じて、双方の相互信頼関係を強化していくことがとりわけ重要である。
 国民レベルでの友好的雰囲気の育成が大切であり、双方のマスコミに相手の欠点を針小棒大に報道する傾向が強く見られる。

3 今後の中国を見る視点
・世界経済危機の影響
 今年の成長率8%が達成できるかどうかは不明だが、対外貿易に依存しているのは沿海部であって、内陸部はさほど影響を受けていない。
 中国の内需拡大の方針は昨年9月の米国発金融危機の直撃を受ける前からの規定方針であり、危機の到来は外資と輸出に依存してきた産業構造の転換に「追い風」の作用がある。
 全国高速鉄道網の整備、低所得者向け住宅建設、農村の教育、道路等インフラの整備、農民の農機具、自動車、家電製品の購入補助など、内陸・農村の発展を促進し、バランスの取れた建設をするための政策をとっている。
 胡錦濤のG20演説「携手合作 同舟共済」(手を携えて協力し、一緒になって困難を乗り切ろう)世界一の貿易黒字国となった中国は世界と協調して経済危機を乗り切る姿勢を明確に打ち出しており、世界、とりわけ日本は中国の活力をどう取り組むかが日本経済回復の鍵になっている。環境・省エネなど、日本が協力できる分野は山ほどある。
・長い歴史を背負った老大国が現代化していく過程
 国土が広大で、人口も多く、古い歴史を背負い、不均質な部分が多い国情、その現代化建設には時間がかかる。
 急速に発展はしているが、08年の1人当たりGDPが3,315ドル(日本は38,559ドル、台湾は17,040ドル)と先進国との差は歴然としている。
 しかも変化が急激であるため、対応しきれていない部分が多方面に存在している。
 あらゆる分野で基礎固めが必要な時期であり、量、速度とともに質、バランスに配慮した発展を実現することが大切。
・今後の課題 透明度の向上
 問題を抱えているとはいえ、中国の強みは共産党の支配体制が機能し、政治の安定が確保されていることにある。執政党としての共産党の役割、とりわけ指導者・幹部の役割が重要である。しかし権力を握った者の腐敗を撲滅することは「百年、河清を待つが如し」、腐敗分子は経済発展以上に「高度成長」している。権力と財力の野合・癒着(権銭交易)が横行し、民衆の不満・不信が増えている。入党を出世、金儲けの手段と見なす連中が増えている。安易な党勢拡大が原因(党員数は人口の5%近く、およそ7,000万人に達する)。
 指導者・幹部を監視・監督する体制の構築だけでは問題は解決しない。法による支配の構築が大切であり、その点で人民代表大会制度を充実させ、名実共に国権の最高機関となるよう改革していく必要がある。
 公的活動に関する情報の公開・公平・公正の原則を貫徹すること、法律規則の整備・充実、内外からの多角的、重層的監視体制の強化が不可欠である。法を遵守し、法が社会を発展させ、人々の暮らしを守るうえの大切な武器であるという意識を国民の間に浸透させることが大切である。法律制度の整備、情報公開、とりわけインターネットの普及により、情報の秘匿、独占、操作は次第に難しくなる。
 透明度の向上なしに社会の発展は不可能であるし、市場経済の発展は必ず透明度の向上をもたらす。中国において民主主義が根付くには時間がかかることは事実だが、必ずその方向に進むことも間違いない。

4 今後の日中友好交流
 政府、政党間の信頼関係の構築、相互交流、協力関係の強化拡大の必要性は言うまでもない。小泉靖国参拝問題から教訓を汲み取る必要がある。
 経済面では、低廉な労働力を狙っての中国進出、というパターンはもはや通用しない。これからは活力ある、巨大な、奥深い広がりと持続的な成長の可能性を持つ「市場」としての中国を念頭に入れた企業活動の展開を考慮すべき。
 GDPで日本を抜いて世界第二位になるのはもう間近。「中国の貧困」ではなく「貧困な中国観」こそが問題である。日本の企業文化・経営思想を理解し、実践できる優秀な中国人人材を育成し、中国と日本との架け橋として活躍できる環境を作る必要がある。
 教育面では中国の大学における第二外国語としての日本語(日本の大学における中国語)履修者の増加に着目し、彼らの学習意欲を増進させる方針を出す必要がある。夏休みや春休みを利用した短期研修旅行や大学間交流協定締結による単位互換制度の充実、副専攻、双学位制度の創出といったさまざまな学習プログラムを用意し、日中双方の大学が協力して人材を育成していくプロジェクトを作り、それが将来的には東アジア全体での人材育成プロジェクトにまで発展するよう、国境の枠を越えた連携が必要と思われる。
 中国人学生に比して日本人学生の中国への関心の低さのほうが深刻な問題である。アジア、とりわけ中国の活力を日本が積極的に受け止め、日本の発展のエネルギーにするたくましさを日本の若者たちが身につけてほしい。
 日中双方に相手側への不信感が根強く存在している。とりわけ日本人の、しかも若い世代での中国不信はかなり深刻である。マスコミ報道や教育に問題があると思われる。生き生きとした学習は現実に触れることから始まる。中国の現実を知るうえで最も効果的なのは自分の眼で中国を観察することであり、それを実現する手段として、研修と交流の要素を盛り込んだ中国旅行を積極的に推進することが大事である。
 まさに「百聞は一見に如かず」。行けば必ず生き生きした中国を体得できるであろう。しかし「一見」はあくまでも「一見」であって「一切」ではない。中国という巨大国家の断片的知見だけに頼って、「だから中国はこうだ」と決めつけてしまうのは正しくない。個別的な事象と全体像とを有機的に結びつける作業が必要で、実体験と理論的学習、それを有機的、持続的に進めていけば、中国にたいする理解は深まるし、生きたものとなるだろう。
 両国政府は青少年交流の重要性を認識し、近年、大規模な青少年交流事業を毎年行っている。これは評価すべきことだが、友好交流の主体はやはり民間にあると思う。そこで民間主導型の、二十一世紀の実情に即した日中友好交流の具体的なプランとして、船と鉄道を活用した大規模かつ多様な団体による中国研修ツアーの実現を提案したい。
 船は飛行機よりも輸送量が大きい。時間がかかるというマイナスは「洋上大学」の開校によってプラスに転換できる。鉄道の高速化が進行中の中国を体験することを通じて、変わりつつある中国を実感できる。
 神奈川県には遼寧(県)、上海(横浜)、瀋陽(川崎)、昆明(藤沢)、揚州(厚木)、無錫(相模原)、敦煌(鎌倉)という友好都市関係を持つ自治体がある。横浜国立大学は北京師範大学、華東師範大学、上海交通大学、山西大学、大連理工大学、天津大学、清華大学と大学間交流協定を結び、さまざまな交流を展開している。県下の他大学でも同様な交流があるだろう。2007年2月に横浜国立大学は北京師範大学、華東師範大学との間でオリンピック、博覧会の開催と都市の現代化、国際化をテーマとした国際大学交流セミナーを実施した。学生、教員の研究発表、交流だけでなく、行政側の協力を仰ぎ、現代的、国際的都市のあり方などを具体的に体験しつつ学ぶことができた。このセミナーはみずほ国際交流奨学財団の支援があったからこそ実現できたもので、次年度も継続して支援が得られないため、1回だけという脆弱さをも持っていた。同様なことはさまざまな団体が体験していることであろう。
 一方、横浜国立大学では夏休みを利用した学生の中国研修旅行を2004年以来、継続して実施している。大学側は交流協定校と連携して、安くて中身の濃い旅行プランを立案するが、経費は参加学生の自費による研修旅行であり、これが継続している最大の要因である。つまり「身銭を切る」ことが友好交流においても大切なのだ。
 これらを踏まえ、今後の新しい動きとして、次のようなことが考えられないだろうか。
 県下のさまざまな組織(行政、大学、友好団体、企業等)の共同企画として、船と鉄道を活用した、船上での研修・交流活動をも含めた中国研修ツアー、たとえば横浜と大連、上海とを結ぶチャーター便で組織する。持続して運営できるよう、参加者は応分の負担をする。ただし企画する側は低廉かつ充実した内容を確保するよう、それぞれの持てる力を出し合って、参加者全員が満足できる内容にするよう努力する。
 船をチャーターするとなると参加者は数百人単位となる。とても一つの組織で集められるものではない。さまざまな組織、団体の参画があってはじめて可能となる。むしろそれが日本側の相互理解のきっかけとなり、ツアーの中身を豊富にするだけでなく、その後の地域連携にも役立つのではなかろうか。中国側にも船を利用した同様な研修ツアーの企画を呼びかけ、相互支援の形で実施していけば、二十一世紀型海洋研修ツアーに育てることができるのではなかろうか。
 神奈川県日中友好協会としてこのような企画を提唱し、県下のさまざまな組織、団体に呼びかけ、実現するための旗振り役になっていただけないだろうか。もちろんこの夢の実現のためなら、私も微力ながら尽力することを申し添えておく。

  2009年6月26日 神奈川県日中友好協会総会にて